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 霧煙るほの暗い洞窟の中。どこからか聞こえてくる安らかなせせらぎの音と一帯に満ちる清涼な空気は、ここが何処かの河の近くであることを匂わせる。
 洞窟の中では、密会を重ねた男女が今、悲しい別れを迎えようとしていた。何処かの騎士かと思わせる男の方は年は若く、鎧こそないものの衣装もそれらしく、腰帯には剣が光っている。身分の高き騎士であろうという証しに、気品と勇気を備えた顔立ちをしている。最愛の相手を見つめるその瞳には今、哀しくも揺るぎない決意が宿っていた。
 半ば倒れたまま騎士に取りすがり、行かないでと哀願する女の濡れたような髪は水底のような青の混じる黒。だがその流れるような髪も、蒼白の肌に薄物を纏った体も、ところどころが酷く傷つき、その美しさを損なっていた。
 女の美しさはこの上なく、どんな国の姫君にも勝るとも劣らぬよう。だがその美しさには何やら人知を超えたものがあり、人の領域の外に住む河の精か何かが、術によって人の姿を取ったが如きであった。
『外に来ているのはあの方だわ。とてつもない怒りに身を任せたあの方の影が、水に映っている。私には分かるの』
『泣かないで、シオナ。彼女に話をするだけだ。真実を話し、そして素直に詫びよう。私が話す。君は心配するな』
 男は歩き出そうとし、女はひときわ強くその体に取りすがる。その薄氷のような瞳に涙が溢れた。
『駄目よ、行かないでディートリヒ。あの方が憎んでいるのは貴方ではなくこの私。あの方と同じ人を愛してしまったこの私だわ。行くべきは私』
 泣き崩れる女を後に、男は一人、日の差し込む方へと歩いて行った。最後に一度だけ振り返り、美しき早瀬の姫に優しく微笑む。
『君は河の王から既に裁きを受けている。だから彼女の裁きを受けるべきは私、この私なのだ』
 時に西方暦一〇一〇年、今を遡ること五十年あまりの昔のことであった。



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