2006年06月20日

W杯

 W杯ということでサッカーが盛り上がっています。
 ですが、私はほとんど試合は見ていません。結果だけをニュースで見聞きするのみ。
 何故見ないのかというと、正直なところ、日本の試合を見るのは心臓に悪いのです。別に日本が危なっかしいとか弱いとかそういう理由ではないです。いや、もちろん展開が危ういからこそ心臓に悪いのですが、それは大きな理由ではないのです。サッカーの試合というのはシンクロ率が高い、それが原因ではないかという気がします。シンクロというより感情を浮き沈みさせやすいというべきでしょうか。
 「流れ」とか「決定力」とか技術的な用語があまり解説で言われないように、サッカーは肌で感じるものがあります。もちろん実際には高度な技術に裏打ちされた戦術や感情のコントロールも含めた駆け引きが存在しているのですが、リアルタイムに連携して人間が動く様はさながらより大きな生物同士の戦いのようでもあり見ている側に一体感をもたらし、それが目に見える結果となった時に揺さぶられていた感情も爆発します。この一体感と感情の爆発は、一見選手達と共有しているようでいて、相当な隔たりがあるのかもしれません。ともあれ、それはどうでもいい勝手な憶測で、ここでは余談です。
 その一体感、これに乗るのがおそらく一番サッカーを簡単に楽しむ方法だと思うのですが、私はどうもそういうことが苦手です。サッカーに限った話ではなく、コンサートなどでもそうです。気持ちをはじけさせるのが苦手なんでしょう。だから逆にあの一体感が恐ろしくもあります。
 だから日本が負けてから、ようやく普通に試合が見れると思います。いえ、やっぱり見ないでしょう。結局のところ、日常の話題以上に興味がないのです。それが本当のところです。

朝の儀式

 両親の旅行中、毎朝お仏壇に線香をあげてました。
 いつも母がやっていることだったので欠かすのも悪いという気持ちの他に、寂しさを紛らわす儀式でもあったと思います。
 学生時代に一人暮らしはしていましたからそれ自体は別にいいんですが、やはり普段家族と暮らしている家に一人というのは、どことなく寂しさが漂います。
 それを朝、仏壇に線香をあげると一人ではない気になる。「ああ、これが宗教の効用というものかな」となんとなく思いました。
 この家に本当に私一人になる日が来てもきっと生きていける。そんなことを確信しました。

2006年06月04日

子どもの安全

 真面目なブログにしたら、さっそく頻度が落ちてます。
 ネタがないというわけではなく、むしろネタはあるけど考えがまとまらない状態。
 とはいえ、このままではブログが停止してしまうのが目に見えているので、答えの浮かばないものでも無理やり書き進めることにいたしました。

 今回のお題は「子どもの安全」。
 ここのところ、子どもを狙った犯罪が後を絶ちませんが、とうとう近所でも同様のニュースがありました。

*甲斐・小1連れ去り未遂逮捕、小2が携帯で容疑者撮影のお手柄

 幸いにして未遂に終わり、逆に防犯ブザーの有用性、また機転を利かせた同級生の携帯カメラによる撮影が犯人逮捕につながったとして話題になっています。犯人はブラジル人の16歳の少年でした。

 その後も、下校中の子どもが顔を殴られるといった事件もあり、県内では今その対策がまたニュースになっています。

*下校中の被害後絶たず 「子ども守れ」県内〝厳戒〟

 対策をとるのは当然のことなのですが、これで本当に防げるのかというのと同時に息苦しい社会になるのではないか、というのは誰もが思うところではないかと思います。

 対策の先行事例として、以前に女子児童の誘拐殺人・死体遺棄事件のあった奈良県では昨年より「子どもを犯罪の被害から守る条例」が施行されています。

*子ども安全条例が施行されました(奈良県警) 
○子どもを犯罪の被害から守る条例(全文)

 雑誌の紹介記事でこの条例を知ったのですが、最初、地域コミュニティでの協力をするような内容のものかと思っていたら、上記のとおり県警が提出したもので、罰則規定のある取締りの条例でした。
 県・県民・事業者などの協力のことも謳ってはあるのですが、特定の行為を禁止する内容が主だと思います。
 ここで禁止されてる行為というのは

(子どもに不安を与える行為の禁止)
第十一条 何人も、道路、公園、広場、駅、興行場、遊園地、観光施設、飲食店、公衆便所その他公衆が出入りすることのできる場所(以下「公共の場所」という。)又は汽車、電車、乗合自動車その他公衆が利用できる乗物(以下「公共の乗物」という。)において、保護監督者が直ちに危害を排除できない状態にある子どもに対し、正当な理由なく、甘言を用いて惑わし、又は虚言を用いて欺いてはならない。
(子どもを威迫する行為の禁止)
第十二条 何人も、公共の場所又は公共の乗物において、保護監督者が直ちに危害を排除できない状態にある子どもに対し、正当な理由なく、次の各号に掲げる行為をしてはならない。
一 言い掛かりをつけ、すごみ、又は卑わいな事項を告げること。
二 身体又は衣服等を捕らえ、進路に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
(子どもポルノの所持等の禁止)
第十三条 何人も、正当な理由なく、子どもポルノを所持し、又は第二条第四号アからウまでのいずれかに掲げる子どもの姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録を保管してはならない。

 となっています。
 また、第十一条・第十二条に違反したと認められる者を発見した場合、警察官等へ通報するよう努めなければならないこと(第十四条)、ともなっています。
 なお、罰則の適用になるのは、第十二条・第十三条のみです(第十五条)。

 この条例の怖いところは、子どもに声をかけただけで通報される可能性がある点と児童ポルノの所持だけで逮捕される点です。
 一応、子どもに不安を与える行為については、そのもの自体には罰則は適用されないのですが、警察を呼ばれるだけで充分脅威ではあります。
 詳しくどの辺がまずいかはすでに記事を書かれているブログなどがありますのでそちらを。

*奈良県「子どもを犯罪の被害から守る条例(案)」ARC 平野裕二のサイト
*子どもを犯罪の被害から守る条例(案)について日本共産党の見解

 記事は可決前のものですが、こういった条例がすでに施行されているというのは、すんなり可決されてしまうほどに事態が切迫しているわけでもあるのですが、日本が監視社会へと向かっているという証左でもあります。何か事件があれば、どこの都道府県でもこういった条例が施行されかねないでしょう。

 さて、ここまで書いて、じゃあどうすればいいのか、という問題に対して、正直よい意見が浮かびません。
 上記のような条例がいただけないからといって、子どもの安全がかかっているわけですから不審者対策をしないわけにはいきません。
 実際にこちらの市内でも青色灯のパトカーが巡回したり、農作業などで畑に出られる方や老人クラブの人たちなど昼間市内で活動する方々の車に監視活動の表示などをしてもらったりしています。こういった活動は、実際に監視して発見するとかしないとかより、監視活動が行われていることをアピールして犯罪を抑止させる効果に重点があるわけです。
 一方で、いろいろと弊害もあるというか、子ども達だけで遊ばせるわけにいかないので外で遊ばせられなくなったり、登下校を交通量の多い大通りにしたり。少し前まで登下校の列に車が突っ込むという報道が続いたと思ったのですが、もしかするとこういう動きを反映してるのかもしれません。
 そしてその上で、こういった対策をあざ笑うかのように犯罪が起こったりします。

 こういった犯罪は、一種社会的な現象で、子どもの問題に限った話ではなく、さまざまな問題が複雑に絡み合っているように思えます。
 暴論ですが、これをあえて概念的にまとめると弱肉強食的な連鎖が起こっているのではないかと思います。ただし食物連鎖ではなくストレスの連鎖ではないかと。社会でのストレスのはけ口が最終的に子どもや老人等の弱者に対して攻撃という形で現れているわけです。そして捕まえられた犯人が報道で次のストレス発散の生け贄になるわけです。そうやって順繰りにまた巡っていく。
 これを正常化するとすれば、あまりに安易で抽象的ですが、強者が弱者を救う構造にするとか。個人主義のせいか、出る杭の人も打たれてしまうご時世ですが、長いものには巻かれろとか、寄らば大樹の蔭とかいうことわざがあります。上手くおだてることで、強者は弱者に施し、弱者は強者に感謝する。そんな単純な事が案外大事なのではないかと思います。
 かなり無理やりですが、具体策が思い浮かばないので、今回はこれで。

2006年06月01日

Aの魔法陣

 エンターブレインからTRPG「Aの魔法陣 ルールブック」が発売されました。
 A5サイズ336pで税別1500円。値段といいページ数といい厚手の攻略本といった感じです。

 このAの魔法陣、以前に出版された「アルファシステムサーガ」に旧版が掲載されていたものです。このブログを書き始めた頃に一度話題にしています
 2年以上経過しているので、さすがにそのままではなくなっており、まだ全部を読んだわけではないですが、より汎用性の高い内容になっています。ですが、その本質はあまり変わっていないようです。

 以前もそうでしたが、このAの魔法陣に対して、私は興味と関心、そして畏怖を抱いています。
 よりスリム化されたシステムに、A-DIC:日常編の導入により軽量にして最速で始められる事は、ネットでのコミュニケーションが当たり前となった現在、強みとなっています。時間もなく、腰の重い社会人にも向いているでしょう。

 しかしそれ以上に私がこのゲームを怖れているのは、このゲームが人を試すゲームだからです。
 正確には、TRPGだっていずれも本当は人を試していますが、他のゲームと違い、参加者間での明確な勝敗はつかず、システムのおかげである程度の達成感を得ることができます。
 ですが、実のところ、システムの影に隠れつつも、知識や細かい采配、表現能力、コミュニケーション能力などの差は感じられます。ただ、それがゲーム自体の勝敗には直接は関係ないだけです。
 このAの魔法陣というゲームは、これらの差が如実に感じられてしまう、そういうゲームです。言ってみれば、その人の人間力というものをさらけ出すゲームです。ある意味で明確な勝敗がつけられる他のゲームより、よほど恐ろしいゲームです。
 もっとも、これはTRPGが根源的にもつ機能でもあります。それだけAの魔法陣が根源に近いシステムだというわけです。

 ブログで一度書いたときに私はこう書きました。

『あなたにはエースとなる意思はありますか?』 、と。

 TRPGに対して非常に後ろ向きな現在、前以上にその意思が持てずにいます。