ヨコハマ中華街&新山手

[ Chinatown BBS Log / No.558〜No.570 ]


陰謀は狂詩曲のリズムに乗せて

Handle : “銀の腕の”キリー   Date : 2001/01/23(Tue) 22:00
Style : Kabuto-Wari=Kabuto-wari◎ Kabuto●   Aj/Jender : 24/Male
Post : Triunf


ズゥン! と、一瞬だけ音を立てて大地は悲鳴を上げた。
−失われて久しい、退魔士としての第六感が、尋常ならざる気の流れを告げる。
 (関帝廟を中心に何を始める気だ、銀の魔女!)
「−−−−始まったね」
まるで心を見透かしたかのように草薙はどことなく呟いた。
「始まった?」
「いや、終わったとも言うかも。でも、アンタが望むフィナーレになるかどうかは判らないさ」

その一言で目が醒める。……俺は何を目的にここに来た? 銀の魔女を殺すため?
(チガウ! オレハ、オレハアノオンナヲ−−)
頭を振る。
先ほど草薙が告げた言葉。
(アンタは今、まっすぐに引かれたラインの上をどこまでもその通りに突き進んでいる)
(その先には破滅しかないのに)
(アンタが本当の敵を倒したいと願うのなら、それから外れなくちゃならないんだ)

「お前、炎は炎を消せないと言ったな。炎を消すには水しかない。……待て」

ゆっくりと顔を上げる。そして草薙を見る。
その瞳に宿る、悲しみをたたえた水面−−−
そして、天を仰ぐ。

「なぁ、草薙。お前、霧の騒動の首謀者に心当たりがあるのか? そして、炎を起こした奴も。−−いや、この、LU$Tに結界まで張って何かを為そうとしている組織を」

ずっと握り締めていた、愛銃をホルスターに収め、草薙を正面から見据える。

「俺は、踊らされていたのか? 荒れ狂う、ただの刃としてLU$Tに打ち込まれているんだな?」

ゆっくりと、だが確実に頷く草薙。
「アンタがもし怒り狂って今まで通りにエヴァを狙ったとすれば−それは本当の敵にとって願ったりかなったりなのさ。邪魔な駒を始末できるって思ってるはずだ」

「銀の魔女が、邪魔?」
思わず苦笑する。なぜ、その可能性に気が付かなかったのだろう。確かに銀の魔女は一連の事件への関与が深い。だが、彼女が関与して得る利益は? そもそも、銀の魔女は何のために動いている? そして、彼女に利を供させるものは?

そして、7年前の関帝廟に現れた、その真の目的は何だったのか。

「−草薙。お前がある組織に属しているのは分かっていて、あえて聞くぞ」
「お前は俺に忠告をするために現れた。俺に見えない糸を植付け、操っている連中から開放するために。そして、その行動はお前の目的に一致する」

「だが、俺を操る連中はそれを良しとしないだろう。−−−何故だ? 何故、俺に肩入れする? 企業にとっては切って捨てればいい唯の工作員だ。−−−何故、俺なんだ?」

-----深い溜息と共に吐き出す。
そして、一言。
「何故、レクセルだったんだ−−−−?」

http://www.d1.dion.ne.jp/~ronginus [ No.558 ]


夢の続きのそのまた続き

Handle : “ツァフキエル”煌 久遠   Date : 2001/01/30(Tue) 03:16
Style : 舞貴人◎ 新生路=新生路●   Aj/Jender : 22,Female
Post : カフェバー “ツァフキエル”マスター




「私はここに千回も前にいたと信じている。そして千回も戻ってきたいと願う」
……ゲーテ
_______________________________________



 「さて、うだつのあがらない市井の輩どもにはあんなの羽はまぶしすぎるようだな。 
  物欲しそうにこちらに触手を伸ばしてきていやがる。
  続きが聞きたいなら、リアルスペースでだ。その場合俺は、いま支配下にある義体を使うことにするが……
 続き、聞くか?」
 その言葉に、“ツァフキエル”はふと振り返って後方のグリッドを見つめる。"Passive-Sonar"を起動させれば、
 いくつかの電子反応が距離を縮めてきている反応が見えた。
 巧妙に。けれど、慎重に。
 「………………どうかしら。歌に……それともお人形さんに引かれてきたのかもしれないでしょ?」
 少しだけ笑っていくつかの電子演算式(プログラム)を確認する。事後承諾になるけれど仕方ない。
 時間がない以上、情報を入手することが先決だ。
 「夢の続きで……また会いましょう」
 その言葉と共に、“ツァフキエル”は光の粒子となって姿を消す。おそらくはアウトロンしたのだろうが、
 少しだけ周囲の違和感に気付いて“デッドコピー”は現在地点を中心にグリッドラインを軽くサーチをかける。
 光の粒子に見えた物は囮(デゴイ)だったらしい。現在端末が割れないために同時に別方向に複数飛ばし、
 他の「出口」に辿り着いたら消えるようになっている。……ひょっとすると全て一時的な「分身」かもしれないが。
 (……時間を掛ければわからなくはないが……共にいる者への危険を出来るだけ下げるため、か)
 フリップフロップで黒人は瞬間自分の身体に意識を向ける。……右手の振動はまだない。
 けれど意識しないうちに口の端が僅かに笑いの形に歪んだ。

 ぴたり。
 急に足を止め、その場を動こうとしない久遠に那辺は訝しげな視線を向けた。
 「どうした、小さい姫サン?」
 「お客さまがくるの……少しだけ、久遠に時間をちょうだい」
 「客……? どちら様ですか?」
 皇が問う。趙は一瞬のうちに緊張した表情で周囲を見回した。
 「……リムネットの黒人さんって人が……」
 「……………………」
 カツン。
 久遠が簡単に説明を終えると同時に、一同の背後に人影が現れた。スーツとミラーシェードで身を固めた男性。
 「……ウォッチャーをお供につけてるとは、なかなかの人気だな」
 第一声に久遠の表情が少しだけ和らぐ。
 「“デッドコピー”黒人さんだね……“ツァフキエル”煌 久遠です。……義体なの、それ?」
 「ああ。……時間がないから本題に入らせてもらう。さっきの続きだったな」
 久遠が頷いた様子を見てから、黒人は口を開いた。
 「……先程も言った通り、リムネット及び北米はこの件に関しては積極的な関与を行わない方針だ。
 けれど情報を集めていないわけではない。とりあえず『今』はそうだというだけだ」
 「動けない理由でもあるんですか?」
 皇の問いに、黒人はにやりと笑ってみせる。
 「俺達は俺達でパーティの準備をしてるんでね」
 「パーティ?」
 「……ネットコンサートさ」
 「ハッ! 随分と景気いいじゃないか。となると“金字塔”も呼ぶんだろう? ……一体、何を企んでるんだ
 アンタタチは」
 肩を竦ませ笑ってみせてから、鋭い視線を那辺はむける。黒人はその問いに少しだけ笑った。
 「答えてもいいが、ハナシが長くなるぞ。……メレディーのことはいいのか?」
 ぴくん、と久遠の肩が反応する。それを見て、那辺はため息と共に視線を緩めた。
 「……メレディーさんは、何処にいるの?」
 「ソラだ」
 「……………………軌道?」
 久遠の瞳が大きく開かれる。心なしか青ざめたような久遠の表情を見ながら黒人は先を続けた。
 「正確に言うとソラに一番近い場所――だ。キャンベラAXYZは知っているな?
 あの街の軌道上ステーション“ヴァラスキャルヴ”で俺は彼女の『足跡』を見つけた……
 …………すぐに消えちまう様な、小さな跡だったがね。少なくとも、それだけは事実だ。
 そして、俺達にはその事実さえあればいい―――――違うか? “ツァフキエル”」
 言葉を重ねるごとに徐々に身体を震わせる久遠に、黒人は確認を取るかのように淡々と続ける。彼女が
 何故このような反応をするのか、メレディーの名とは明らかに違うこの反応は何であるのかは知らない。
 彼にとってはどうでもいいことだし、必要になったときに調べればいい。
 しかし……こちらから「情報」を提示した以上は、久遠にも動いてもらわなければいけないのだ。
  メレディーへの認識。
  ウェブでサーチした時に出た結果と、対面時の素養情報。
  側の女性(支配している義体の情報を信じれば、バウンティハンターのようだ)が彼女に呼びかけた
  台詞……「電脳の小さい姫サン」の言葉。
 何より、黒人自身が感じた「制御できない感情」の一部が、久遠とメレディーのベクトルの一致を示していた。
 現状のままでも構わないが、彼女が「参加」した方が明らかに“電脳の歌姫”を早期発見できる可能性が高くなる。
 「“ツァフキエル”……いや、煌だったか。お前は俺に言ったな。『何を守りたいのか』と。
 ――――――そのまま同じ台詞を返そう。お前は何を守りたいんだ?
 この街で。この状況で。今ある全ての時間と情報の中で。
 お前自身と、お前の翼を穢す覚悟は出来てるのか?」
 つい先程、御厨に言ったのと同じ言葉を黒人は久遠に向ける。当然、予想していた答えが返ってくるより先に、
 久遠の膝が突然崩れた。
 「……………………?」
 「大丈夫ですか、煌さん? ……何が……」
 心配そうに近づく皇と趙に、少しだけ頭を振る。……先程よりも、明らかに顔色が悪い。路上で座り込んでしまって
 立てない久遠を、しょうがないという顔で那辺が背負った。
 「……………ホワイトリンクスの影響か?」
 その様子を見て、黒人が呟いた。
 問いかける、というよりは確認するといった趙の視線を受けて黒人は口を開く。
 「ホワイトリンクスはナノマシンだ。その為、その場の環境そのものを変えることもある……環境の変化は
 ダイレクトに身体と思考に影響するからな」
 苦しげに、僅かに顔を上げた久遠の瞳を見て、黒人は同じ電脳の住人として悟る。
 自身が、翼が穢れる覚悟どころではない――既に、彼女の翼はむし取られ、身体は悪質な蟲(ウィルス)に蝕まれて
 いるのだと。その結果、瞳はより高きを見つめるようになったのだと。
 手に入れた能力と、人格がギリギリのラインで微妙な関係の上成り立っている。まるで半欠けの月のようだ。
 「……全く、どうかしている」
 どいつもこいつもイカレている……勿論、自分を含めて。
 そんな黒人の小さな呟きに、久遠は微かに微笑んでみせた。電脳空間での存在感が嘘のような……
 消えてしまいそうに儚げな微笑みを。
 「…………それでも………………」
                   (――――それでも――――――)
 「行かなきゃ……いけないの……」
                   (私は――行かなくちゃ――――)
 「……守りたいもの、たくさん、あるから……………………」
                    (――――――――守りたいのよ)
 久遠の言葉と、黒人のメモリの中の彼女の言葉が同時に響く。回線をビジーにされたような感触に、先と同じ
 台詞を黒人は呟いた。…………本当に、全くどうかしてる。
 (……黒人、お取り込み中悪いけど)
 (ああ、わかっている)
 僅かにからかうような笑い声を含むクローソーの呼びかけに、黒人は状況情報を更新して再構築を行う。
 感傷に浸っている暇はない。時間がないのだ――呼びかけと同時に、ダレカンからのファーストコンタクトが
 あったのだから。フリップフロップを意識上層レベルでしか認識しないため、支配している義体の右手が
 微かに痺れているような感触を受けている。
 構築後にビジータイムラグが消える。黒人は先程と同じ、冷たい笑みを浮かべた。
 「……それならそれでいい。俺は俺のやりたいようにやるさ――“小さな電脳の姫君”
 俺の招待状(アドレス)を渡しておく。何かあったら呼んでくれ。クルードにでも、テクニカルにでも」
 メモリが自動回帰して、ツァフキエルの言葉が蘇る。
 にやり、と。黒人はさらに深く笑った。鮫のような笑みを浮かべ、同じ言葉を返す。
 「…………………夢の続きでまた会おうぜ」


http://plaza.across.or.jp/~ranal/master_nova/quon_nova.html [ No.559 ]


目覚めの迷宮(1)

Handle : シーン   Date : 2001/02/12(Mon) 00:20



目覚めの迷宮(1)


『 And all the roads we have to walk are winding
  And all the lights that lead us there are blinding
  There are many things that I
  Would like to say to you but I don't know how
  〜僕らが歩く道は全て曲がっている
   僕らを導く明かりも消えている
   君に言いたいことはたくさんあるけれど
   どうやって言えばいいのかわからない〜

                     WONDERWALL  』




 モニターの画面一杯にキリーと草薙の姿が映る。
 男はそれを見つめながら溜め息をついた。
「見えぬ壁の向こうから編纂室が現れたことに正直驚きました。ですが、予想していたとはいえアラストールを導こうとしている者達の姿までこの目で見ることになるとは」
「当然の反応でしょう」
 肩まで伸びた美しいシルバーブロンドの髪をゆっくりとかきあげながら一人の女性がその問いに答えた。
「ニケ・レンティーラ。貴方は何処まで今件に関する交渉権を本国から委譲されているのですか?」
 しかし、その問いにニケはただ静かに微笑しただけだった。
「私はただ本社の・・・グループの総意を伝えるために今日は同席させていただいただけです」
「でも、それは同時に議会の総意を示す事になるのでしょう?」
 続けて応えたニケの隣に座るジュノー社のファルナ・アナハイムが肩を竦める。
 ニケは言葉を返してきたアナハイムを一瞥した後に、この中華街を巡る一連の決定権を持つG.C.I.のエージェントへと視線を向けた。この円卓は北米連合の進退を問う場だ。
 G.C.I.本社のアラン・シンバーから派遣された目の前の男は一体何を考えているのだろうか。そもそもこの霧のベースとなる技術を開発したのは、G.C.I.だ。それにFCMを通して、ジュノー社やトライアンフ社、LIMNET-P社・・・果ては、いまや北米連合において絶大の影響力をもつまでに至った厚生省が、想像も及ばない大規模な投資を行っている。
「正直に尋ねることにするよ、ボクはね」
 その場の思い空気を除けるかのように、一人だけ陽気な声があがった。
 ニケが視線だけをその声のほうに向けて一瞥する。その主は、この北米連合の各代表が席につく場に、唯一同席が許された日系人だった。予定はされているもののBHもB.H.K.をも差し置き、同席することになった人物で、面長なようでいてすっきりと線の通った印象深い顔をしている。ニケは一目で見抜いたが、男のように見えながらもそれは実は見事に顔の整った女性だった。
「鼻持ちならないね、うん」声の主が指で円卓の端を叩く。「ねぇ、忘れていないかい?ここはLU$Tだ。憶えているだろう? ヨコハマLU$Tなんだ。貴方達がまたこのLU$Tに舞い戻るのは構わないよ。だけど、要らぬ手土産はご勘弁願いたいね」
 和知が席を立って目の前のモニターを手の甲で叩いた。
「この霧も実に不愉快だ。こともあろうか、僕等イワサキの城下町の空まで覆ってしまったよ」
「霧を発生させたのは我々ではありません」
 ニケが言葉を返すと、和知がにっこりと微笑んだ。
「そうだね、確かにそうだ。君等は何もしていない。ならボクは、君達は何もすることすら出来なかったと言い直せばいい?」
 小癪な奴だと言わんばかりにトライアンフのエージェントがギチリと歯を鳴らす。だがその声の主はそれを全く意に介していなかった。G.C.I.のエージェントは無言。ファルナ・アナハイムとニケはただ静かに笑っただけだった。
「随分な物言いね、和知さん」ニケは両手の指先を組みながら肩を竦めた。「確かに私達はここまで目に見える形では手を打って来なかったわ。でもそれをFCMの利益と結び付けられても困るわ。私達が今こうしてこの非公式な席に貴女を千早を差し置いてまでも同席戴く為に声をかけたのは、それが私達の国益に・・・しいては貴女方の益に繋がると判断したからよ。だって____________」
 ニケがにっこりと微笑む。
「LU$Tは貴女方の城下町なのでしょう?」
 和知は頭を振る。
「ねぇ、Miss ・レンティーラ。時間が勿体無いから、せめてここに同席戴いている皆さんには正直になってもらうことにしようよ。だから僕も正直に、もう一度言うよ。僕等はね、この『僕等の』ヨコハマLU$Tから霧とその元凶たる存在に去って頂く事に最大の目的がある。
 観ただろう? 僕等や君達を含め、各居住ブロックのウォッチャーから送られてきた映像ソースとその報告書を」和知が仰々しく両手を祈るように捧げる。「悪霊?魔物?何も小難しい話をしようと言うんじゃない。あの紅い髪の女が呼び寄せているこの狂乱の宴はどういうことだい? イワサキの要職が何人発狂したか知っているかい? それだけじゃない、SRにどれだけのコールが殺到したか知っている? 冗談じゃない!!!」
 テーブルの天板を勢いよく二度、和知は打ちつけ、モニターを指差した。
「観ろよ! この銃を構えあっている男達の一人は、銀星会の情報では、N◎VAやLU$Tでも名が知られている“銀の腕の”キリーと言う、僕等にとってはとても厄介な奴だ。それとこの笑っている男を知ってるだろう? こいつは以前に中華街の騒動の元凶にもなった『アラストール』に関わりを持つ奴だ!!
 最近の青面騎手幇や各地の三合会の客家達の気に障るいやな動きを押さえ込むだけでも面倒なことなのに、何でまたこんなにもこのLU$Tに客人が集まることになっているんだ!!
 ボクの友人の石見沢が調べた限り、どれもこれも虚実と言うんじゃなくて、何もかもが糸に絡んでいて、まるで四面楚歌の最後の宴の様だ!!!」
 その場の空気に緊張が走る。ニケは息苦しくなったといわんばかりに溜め息をついた。
「私達の目的は__________」
 初めてジュノー社のエージェントが口を開いた。
 その声は決して狭くは無い部屋の隅々にまで行き渡るような凛とした声で、和知の憤りに沸き立ちそうになっていた場を収めるように聞えた。
「________本国-ステイツ-の国益だ。和知課長、貴女がLU$Tの益を考慮するように、無論我々にも同じように守るべきものがある。君が言う紅い髪の女性は、以前にFCMが極秘裏に推進していた機密の頂上にあるナノマシン研究における主要技術者の一人だ。いや、だったと言うべきだな。
 彼女は今から数年前、FCMが世界に向けて策定を進めていたナノマシン基礎制御コードの開発途中で行方不明になった人物像と非常に酷似している」
 その言葉に被せるようにG.C.I.のエージェントが呟いた。
「ナノマシンがどれほど画期的な革命を我々に齎すのかについて、ここでは言及を控える。だがその技術が我々の生活と近い距離に存在しないのは幾つかの理由がある。その技術のライセンスが高価と言うだけではない。ナノマシンが強力な因子として働く以上、強烈な毒もあるからだ。使い方によっては、我々の常識などは崩れ去り全く意味をなさない形で、様々な物理現象に干渉することが可能になるからだ。
 無論我々がそういった危険性を持つ要素に対して何も手段を講じていなかったわけではない。それこそが、今、不用意にナノマシンが複製利用されていない事に現れている。
 我々がナノマシンに施したセキュリティには、実際に情報操作として我々が行っている事とは全く別の技術レベルで幾つか手段を講じたところがある。一つは、ナノマシンを複製する為にその構造へアナライズを行うと自己融解して自然消滅するシステム。そしてもう一つは、ナノマシンへコントロール干渉をしようとした際にそれを阻害する強固な暗号化システムがある。詳しい言及はここでも控えるが、ナノマシン同士が相互にカオス型の暗号キーを補完しあい、常にその符合が変化しつづけることにある。つまり最初に埋め込まれた命令以外は決して受け付けないシステムを持つわけだ。いかな我々でも、然るべき手段以外にその壁を破ることは出来ない。
 _________これは、我々が諸刃の剣を手にする意志がないことだと理解いただきたい」
「問題は、ここからよ」
 ニケがしっかりと円卓のメンバーを見据えてから口を開いた。
「紅い髪の女性・・・私達の情報が間違っていないのであれば、彼女の名はゲルニカ・蘭堂。今から数年前にFCMのナノマシン研究所から行方をくらませた人物よ。
 はっきり言うけれど、私達の憶測を語ってもそれがゲルニカの目的に符合するのかどうかわからないわ。
 ただ私達にわかっているのは、彼女がLU$Tに散布した霧・・・私達が“ホワイトリンクス”と読んでいたナノマシンが持つ機能は非常に強力なものだということ。 元々は干渉に対して強固な防壁を持つ広域相互間通信を実現する為に生まれたテクノロジーで、本来通信などが行えないような環境でそれを実現することが出来るわ」
 一度言葉を切り、ニケは側のグラスを手にとった。
「でもそれだけじゃない。 霧が散布され、ある一定密度に達すると物理干渉も可能になるの。 もう少し具体的に言うと、ナノマシン自体が持つビルド機能で物質を作り上げてゆくことが可能だということよ。何も無い空間に物質を生み出すことがある程度だけれど可能になるの」
 ニケの説明をひとしきり聞いた後、和知は首を傾げた。
「ふむ・・・大体はわかったよ。だけどまだわからないことがある。そのホワイトリンクスに触れた人々が発狂したり・精神や肉体に深刻的なダメージをおうのはどうしてなんだ?」
「それは__________」
 ニケが言葉を切り、初めて周りの意見を伺うように円卓を見回した。
 その視線を受けてジュノー社のアナハイムが重々しく口を開く。
「先ほど申し上げたでしょう・・・広域相互間通信を実現すると。ホワイトリンクスは適正は求められるものの、いわゆるテレパシーの様に意識や感覚を共有することを可能にするシステムです。発狂された方々は・・・失礼な言い方ですが適性が無かったとも言えます。
 自らの自意識の中にホワイトリンクスを通じて融合された他の人格が同居を始めるのです。
 最初は耳鳴りや気分が悪くなるなどの症状からスタートして、果ては、離れた場所にいる人間とテレパシーでつながれたようになる。精神が・・・脳体の神経チャネルがそれに絶え切れ無いと、酷い場合には発狂します。
 そして、大気に満たされたナノマシンが呼吸と共に体内に取り込まれ、その蓄積がある一定量になるとマシン達はビルドをスタートする」
「・・・ビルド?」
 眉を顰めた和知の言葉に、口元を僅かに歪めてアナハイムが答えを続ける。
「ナノマシン単体がもつエネルギーは微々たるもの・・・その名の通りスケールが影響するわ。でも、格好なことに人体の中には非常に有効な資源が満載されている。グルタミン酸をはじめとした各種ホルモン物質やペプチド・・・それだけじゃない、タンパク質の合成にも適した環境だし、最近の人体には実に見事なニューラルウェアやサイバネティック・フレームが組み込まれていることすらある。 もう大体言いたいことはわかったでしょう?」
 和知がわなわなと肩を震わせて嫌悪感を顕わにする。
「__________寄生するのか! それも・・・人体に!!!」
「寄生なんて・・・パラサイトだとは言い切ることは無いでしょう。考え方にもよるけれど、ジネティックインプラントとそうかけ離れた設計思想ではないわ。 お互いに相互に補完しあうのだから」アナハイムが口元を僅かに歪めて微笑みながら和知に応える。「擬似的に肉体にインストールされたことになるホワイトリンクス・・・ここではマシンと呼ぶけれど、彼等は人体でビルドを開始し始めるとまず自己の存在を固定化するわ。手っ取り早いのはニューラルウェアね」
 アナハイムが手元に在ったデータクリスを天板の一角に差し込む。すると暫くして、精巧なCGで描かれた人体がテーブル中央のホログラムモニターに映し出された。
「もし」アナハイムが言葉を強調する。「インストールされた肉体が適合した場合、マシンは人体内で精製されているホルモンや神経ペプチドのコントロールを中心にして、まず人体のチャネル構造を変えてゆくわ。言うなればマシンが肉体の使われ方を判断して、一番最適な状態へと骨格レベルから人体やニューラルウェアをビルドアップしてゆくの。
 人によっては神経加速が飛躍的に向上するかもしれない。バサラやマヤカシの様に超常現象を行使する能力が飛躍的に向上することもあるわ」
 ニケが手を上げてアナハイムの言葉を遮る。
「もうそれ位でいいでしょう。技術的な話は。最後に載っている大きな問題は、そういった機能を持つホワイトリンクスを使って彼女が・・・ゲルニカが何をやろうとしているのかと言うことよ」
 アナハイムが肩を竦める。
「議会でも報告したけれど、私の予想としては______________」



http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.560 ]


目覚めの迷宮(2)

Handle : シーン   Date : 2001/02/12(Mon) 00:21



 煌は、那辺の耳元に囁いた。
 それに気付かない皇や趙、そして離れて歩く黒人をゆっくりと見つめてから一度頭を振った。
「那辺さん、御免なさい吐き気が酷いの。何処かの路地で少しじっとしてやすみたいの________」
「あぁ、構わないが・・・大丈夫かい?」
 心配げに背負ったまま那辺が顔を煌に向けてくる。煌は弱々しくも精一杯微笑んで見せる。那辺にはそれで充分のようだった。
 祥極堂から関帝廟に向かって歩いて数分ほどにある裏路地の一角で那辺が煌を背から静かにゆっくりと降ろす。
 誰も近寄らないような暗い路地だったが、それは逆に煌には心が落ち着く暗闇だった。
 両足が地面についた瞬間、煌が短かな悲鳴をあげた。
 驚いた那辺が上着を跳ね上げて銃を取り出そうとする。それを煌は弱々しく手で制した。
「ご、御免なさい、暫くウェブに降りていなかったから、まだ身体の感覚がぼやけてコントロールできてないみたいなの。なんでもないわ、暫くすれば納まるから。なんでもないの」
 那辺の背を離れ、呟きながらこみ上げる吐き気を振り払おうと煌は背を齎せるように壁に寄りかかった。
「なぁ、お姫さん。本当に大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫・・・・ちょっと___________」
 ゆっくりと壁伝いに路地の奥へと進んでゆく。後についてこようとする心配げな皇を優しく手で制してから煌は呟いた。
「ゴメン、ちょっと一人にさせて・・・吐き気が酷いの」
「煌さん・・・・」
 視線を皇から外して路地の奥へと向ける。路地の奥を見つめれば見つめるほど、何処までも続くような闇が見える。煌はその闇を見つめながら息をつき、歩を進める。
 いっそのこと、その闇に紛れて眠ってしまいたいほどだった。
 以前よりも発作が訪れる間隔が短くなってきている_____________首筋の襟元の奥に手をやりながら、無理やり歩を進める。時々、意識が飛んで勝手に何かにシンクロするような感覚は、日を増す毎に強くなっていた。
 人と話していたり、何かに夢中になっていたりしているときにはそうでもないのだが、少しでもぼうっとして気をやってしまうと、意識が飛んで気を失うことが多くなるのだ。
 進められて医者には行ったものの、皆目見当がつかないらしく治療もまちまちだった。
 そもそも試験体の廃棄を経た自分の身体ではどうにもならないのだろうと諦めたこともあった。
 だがそうやって一人思う度に、今までであった人々の面影やその思い出が、走馬灯の如く意識の海をメリーゴーランドらしく駆け巡り、生きることへの渇望で彼女の心を縛り上げた。
 _______もう時間が無い。
 路地をさらに数分程進み、那辺たちの待つ姿が小さくなった辺りで煌はくず折れるように座り込んだ。
 ゆっくりと真上を見上げて呼吸を繰り返す。
 じっくりと見上げたことの無かったLU$Tの日が完全に沈もうとしている空が微かに見える。せり上がった嗚咽を吐き出すように煌が静かに涙を流して泣き始める。
 まるで自分の身体がなくなったような感覚には慣れたものの、精神すら揺らぎ始めた日常に徐々に疲れ始めていた。電脳の海に降りて潜るっている時のような爽快感を遥かに越えた安堵感に渇望していた。
 だが、その海に潜るたびにたくさんの親しい友人達との距離が離れてゆく。だが、自信の生は疑い様の無いほどその海にあるのだとわかりきっていた。
『________やぁ、お困りのようだね』
 涙に目を閉じると、聞きなれた声と見慣れた天使のような笑顔が蘇ってくる。
 遅い時間に桃花源をでてLU$Tに戻る夜、発作を起した自分を介抱しながらリムジンを繰る和知の姿を煌は思い出した。
 優しく彼女の手が自分の髪を梳きあげるその仕草が堪らなく思い出を救い出すようで、とても気分が良かった。
『・・・最近、体調が悪いようだね。繋ぎ過ぎじゃない?』
 ・・・そうかなぁ。でもとても安心するのよ。繋がっていると接触のノイズすら心地よいの。
『でもそれはさすがに身体に無理があるでしょう』
 ・・・うん、そうかもしれない。時々ね、何もかも飛んでなくなってしまうような感覚を感じることがあるの。
『でも、離れられないんだね』
 ・・・そう、私はこの両手から手放したくは無い思い出がたくさんあるの。
『_______ふーん・・・そうだ、いいモノをあげよう』
 ・・・何をくれるの?
『ボクのとっておき。岩崎製薬の画期的な新薬。まだ臨床実験中だけれど、かなりいい感じのレポートを受けてる。君みたいな、NAS症候群にはきっと効くと思うよ』
 ・・・どんなの?
『ちょっと首をこっちに見せて___________そう・・・・』
 首元にひんやりとした感触。
『効果が無くなるまでとても剥がれ難いパッチだから、普段ダイヴしながら歩き回っている煌さんにはちょうどいいね!』
 首元のひんやりとしたパッチから、一瞬まるで氷の触手が伸びてきたような感覚に、小さく短い悲鳴をあげる。
 だが、それはほんの一瞬のことで、次第に身体が火照りを帯び、意識が鮮明になってくる。ノイズの様にダブって聞えることもある自分や人の声が、はっきりと内耳を通してIANUSが伝えてくる。こんなにもダイレクトに自分の肉体と精神を両手に掴んだのは何時以来だろう。
 気をやってしまいそうな、圧倒的でピュアなダイレクトサイクルに、煌は恍惚に濡れた溜め息を漏らした。
『_________どう? 幾らでもアルよ・・・煌さんになら幾らでもあげよう。その代わり________________』

 いつのまにか首に感じるひんやりとした感覚に煌は目を覚ます。
 慌てて首元に手をやると、触れ慣れたパッチの感触が指先を刺激した。
 ・・・どの位こうしていたのかな・・・
 ゆっくりと見上げていた空から視線を外して路地を振り返る。視界に小さく、手を振る皇と那辺の姿が見えた。
「煌さん、大丈夫ですか!」
 煌の姿が見えたのか、皇が心配そうに走りながら駆け寄ってくる。神経質に辺りをキョロキョロと見回しながら那辺の腕につかまる趙。だが、その那辺は腕組みをしてじっとこちらを見ているだけだ。黒人の姿はもう見えない。

 煌は壁に手を軽くつき、ゆっくりと起き上がった。
 濡れた服を纏った鉛のような重い手足が、羽根の様に軽くなっている。
 自然に口元にゆったりとした笑みが浮かび、自然と足取りも軽くなる。

「_________時間が無いなら、限りなく近づくだけね。クルードでも・・・テクニカルにでも」
 煌は躍るような軽い足取りで、皆の元へと戻ってゆく。
 しかし、その涙を知る者は____________今はまだ誰もいない。


--------------


「なぁ、草薙。お前、霧の騒動の首謀者に心当たりがあるのか? そして、炎を起こした奴も。
 ________いや、このLU$Tに結界まで張って何かを為そうとしている組織を」
 ずっと握り締めていた愛銃をホルスターに収めるキリーを、草薙は正面から見据えた。
「俺は、踊らされていたのか? 荒れ狂う、ただの刃としてLU$Tに撃ち込まれているんだな?」
 そうだ、だがもう過ぎてしまった時間は取り戻すことが出来ない。
 草薙はゆっくりと頷き返した。
「アンタがもし怒り狂って今まで通りにエヴァを狙ったとすれば_________それは本当の敵にとって願ったりかなったりなのさ。邪魔な駒を始末できるって思ってるはずだ」
「銀の魔女が、邪魔?」
 草薙は表情に出さなかったものの思わず苦笑する。
 そうだ、キリー。人は何故その可能性に気付かないのだろう。確かに、俺たちの行動は一連の中華街の騒動への関与が深い。だが、その関与で得る利益は? 俺達が今動いているのはちょっと違うところに最終的な答えがあるんだ。
 ・・・そしてそれは最後に、オマエが捨て去る事が出来なかった、鉛よりも重い7年前記憶の真実に迫ることになるんだ。
 草薙の瞳を見つめたまま、キリーは一歩前に出た。
「______草薙。お前がある組織に属しているのは分かっていて、あえて聞くぞ。
 お前は俺に忠告をするために現れた。俺に見えない糸を植付け、操っている連中から開放するために。そして、その行動はお前の目的に一致する。
 だが、俺を操る連中はそれを良しとしないだろう。________何故だ? 何故、俺に肩入れする? 企業にとっては切って捨てればいい唯の工作員だ。________何故、俺なんだ?」
 キリーが深い溜息と共に血の滲むような呟きを吐き出す。
「何故、レクセルだったんだ____________」

「彼女でなければならなかったんだ」
 突然耳に飛び込んできた声に、草薙とキリーが思わず身構える。
 声のその方向へ銃を手にしながら振り返ったキリーと草薙を、PVのボンネットに寄りかかるように一組の男女が見据えていた。
 だが視界にはもう一つ奇妙なモノが、まるで蜃気楼のように浮かんでいた。
 丁度、ボンネットの上に浮かぶ、半透明の光り輝く女性のシルエット。
 輪郭と顔の表情が微かに解る程度だが、それは確かに人の形をしていた。
「・・・八神」
 草薙は眉を顰めたが、キリーは喘ぐような呟きを吐き出して銃を取り落とした。
 ゴトリと重い音を放ち、転がる銃に目もやりはしなかった。パニックに陥らないように自制するのが精一杯だった。
「____________レクセル」
 男・・リョウヤが無表情にキリーと草薙を見つめた。だがその面からは何も伺い知ることはできない。
 やがて、ボンネットの上に浮かんでいた光る人影が、まるで幻のように微かに明滅を繰り返しながら、ゆっくりと左手を持ち上げた。
 草薙がその指先を目で追うと、その先には関帝廟の正面門が佇んでいた。
 異様なほど人間的で女性的な優雅さをもつ仕草が、目の前に浮かぶこの人影が幻などではなく、ちゃんとした自分の知る存在だと、キリーは悟った。気を抜けば身体が戦慄きそうな思いに駆られた。
「自分で無ければならなかったんだ・・・そう彼女は言っている」
 キリーの思いを察しているのか、それを肯定するかのようにリョウヤが薄く笑った。
「御前が知るようにこのここだけとは言いはしないが、このLU$Tには強力な施術が存在する。俺にとっては有象無象のようなものだが、それを知る存在は国内にも国外にもそれなりにいる」
 リョウヤが静かに口を開く。
「彼女の全ての声が聞えるわけじゃないんだ。だが彼女はこう言っている。自分の血と魂が楔になってこの扉を締め上げている鎖を留め繋いでいるのだと。
 扉が開けば、悪意はさらなる悪意を生み、恐怖は形となって姿を現す。その波は、瞬く間に時と心を覆いつくす。それを留め置く為に穿たれたのだ__________」
 キリーはリョウヤの言葉を最後まで聞いていなかった。
 ただただゆっくりとその揺らめく光の人影に向かって歩みを進めていた。
「この腕を恨みもした」
 揺らめく人影が指し示していた腕をゆっくりと下げる。
「退魔の力で穿てるものだと信じていた」
 人影が哀しげに揺れ、関帝廟を包む無言の圧力に吹き飛びそうに振るえた。
「暗闇に光を求めて狂い飛んでいた俺が見つけた、仄かに輝く光」
 キリーがゆっくりと右腕を持ち上げてゆく。
「暗闇の海に浮かぶその光は、やがて俺を暖かく包み、全てを満たしてくれていたかもしれない」

 キリーの口元は戦慄いていた。
「_________________レクセル」
 そして激しい怒気と悲哀の表情を行き来しながら、右手の拳を音がなるほど強く握り締める。
「応えてくれ、エヴァンジェリン・フォン・シュティーベル。
 何故・・・彼女でなければならなかったのだ_________」


--------------


「那辺さん、煌さん・・・本当に大丈夫なんでしょうか?」
 皇は正直に胸中を言葉にして那辺に投げた。
「本当に、今、彼女を関帝廟に連れて行ってもいいんでしょうか」
 だが、那辺は腕を組んで路地を歩いてゆく煌を、後ろから見据えたまま何も応えなかった。
 数秒の沈黙が過ぎた後、趙が皇の側へと近寄って来る。
 少しそわそわしながらも、幾らか決心しているようなそんな感情が伺える表情だった。
「皇さん、以前に話そうと思っていたことなんですが・・・」
「え? 何?」
 趙が囁くような声で呟く。
「王美玲・・・王姐が貴女に伝えようとしていた事です」
 皇は不意にの言葉に、僅かに口元を開いて何か応えようとしたが巧く言葉が出てこなかった。
 趙は一度頷いてからさらに一歩皇に近寄り正面で向き合えるように姿勢を正した。
「皇さん、王姐が貴女に託そうとしているものは_________」
 趙が首元からWaWのコードを引き伸ばして皇に手渡す。
 皇は暫し考えた後、そのコードの先の端子を自分のIANUSのソケットに差し込んだ。
[...王姐が私に託したのは、霧や私達を監視している各勢力が捜し求めている情報の一部です]
[...それは何となくわかっていたわ。王美玲は私にその情報の公開を頼みたいのだと思っていたのだけれど]
 趙が瞬きをする。WaWを通したその会話に表情は見えない。全ては声と共に伝わる電圧や情報の流れがもう一つの姿を皇に見せる。
[...正確には違います。そう言った意味では、王姐の調査レポートのその殆どは千早と中華最高陰陽議会が手にしています。無論それが全てではないでしょう。私自身が王姐から聞いている情報が全てだとは限りませんから。ですが、私が知る限りの情報と言う意味でほぼ情報としては、既に捉えられつつあります]
[...じゃあ、王美玲は私に何を?]
 趙から流れ込んでくる電気的な刺激の圧力が一瞬昂じたように皇は感じた。
[...王姐から私が最後に託されたのは、霧を構成するナノマシン間において行われている超高速のプロトコル変換とクリプト変換における一定のパターン認識を可能にする・・・言わば、ナノマシンと私達の情報変換におけるロゼッタストーンです]
[...もしかしてそれがあれば、霧を構成するナノマシンに干渉することが出来るということ?!]
 皇の驚嘆に揺れるシグナルが趙へと流れてゆく。趙は一瞬にっこりと微笑んだが、直ぐにまた険しい表情へと戻ってゆく。
[...端的にいってしまえばそうです。ただ問題なのは、この霧を構成しているナノマシンへ干渉が出来るという事は、あまりにも急激に事態を変化させることになります]
[...急変?]
[...そうです。実はナノマシンへの干渉を試みることは可能になるものの、それを制御する術を私達は持っていません。もう少しわかりやすく言うと、ナノマシンへのコミュニケーションが可能になってもナノマシンをコントロール下に置くという訳ではないのです。ナノマシンへのコミュニケーションが可能になった時点で、私達は彼等の郷に従う形で彼等に情報を送り、的確な法則にのってサイクルを回さなければなりません。ですが・・・]
 皇は趙に詰め寄る。そんな皇を見つめ返しながら、趙が下唇を噛み締めた。
[...ですが、そのサイクルが問題なんです。無数に近いナノマシン達全てから処理が返ってくるような想像を絶する超高速のサイクルに同期してイントロンを制御する術を、私は持っていません。・・・私は]
 皇は次に趙が呟くであろう台詞が思い浮かび、悲哀の溜め息を漏らし、思わず天を仰いだ。那辺がその仕草に初めてその視線を二人に向けるのが視界に映る。
[...まさか___________貴女、煌さんを・・・]
 趙の下唇が少し切れて血が滲んだ。
[...そうです。私は煌さんならそのサイクルに耐えられるのではないかと考えています]
 皇のIANUSIIが、怒りのノイズに打ち震える。
「ふざけないで!! 私が目の前でそんなこと見過ごせるはずないでしょう!!!」
 皇は思わず実際に身体を動かし、大声を上げて趙の両肩を強く掴んでかき揺らした。
 王美玲から最後の希望を託されて我々のLU$Tを覆う霧を払う術を知るとばかり考えていたこの女性は、自分の友人でもある煌を使って・・・それも生死を問うような舞台へ引き出そうとしている。それも今初めて自分はそれを聞かされている。無論煌本人はそれを知りもしない。彼女を先ほどまで心底気遣いながら負ぶっていた那辺も知らず・・・黒人すら知らないかもしれない。知るはずがない。知ろう筈がない。
[...でも、もう恐らくそれしか手段がないんです! 私だって自分がやれるならどうにかしたい! でも、ナノマシンへ干渉を試みられるほどの人を・・・それだけの仕事を頼めるだけに信頼の置ける人を誰も・・・誰も私は知らないんです! それに__________]
[...それに?]
 皇はこれ以上どんな事実が、趙の口から話されるのかと言うことに対する恐怖と戦いながら、彼女へと畳み掛ける。
[...それに・・・本人にはまだ未確認の情報ですが、煌さんは私達が以前に住んでいた軌道施設から投棄された実験体である可能性が高いという情報を得ています。それもその存在が奇跡的だとさえ言われる“ベビー”に匹敵したMMHの実験体である可能性が非常に高い]
 趙は視線を一瞬路地の向こうへと向ける。その先には煌が這うように休みに行った路地が映っているはずだ。
[...煌さんだったらナノマシン達と渡り合える可能性が一番高い・・・。そこで初めて私達は霧を操っている存在と同じ土俵に立つことになる]
[...趙さん、私がレッドを使って各方面のメディアに情報を流す手段をもっているのは確かよ。でも、私、煌さんを殺すとわかっているような舞台に引き揚げる為にその回線を初めて使うなんて・・・絶対に_________]
 趙が噛み締めていた唇を放して、左手で皇の腕に触れる。その力は、限りなく優しいものだった。
[...皇さん、お聞きしたいことがあるんです。以前に伺ったレッドの回線は、物理的にはどのようなものなのですか?]
[...レッド? ・・・私もあまり詳しくはいえないのだけれど、中央回線を持たない幾つかの個人的なVPN回線が相互補完をする形で、幾つかの光回線と衛星を経由してメディア各社へと繋がるようになっているわ。それがどうかしたの?]
[...つまり、高速データレートを実現している回線なんですね? 友人で情報を行き交わせるような手段ではなくて?]
 皇は眉を顰めた。趙は一体何を言おうとしているのだろう。
[...皇さん、貴女のレッドに流してもらうのは何も今回争点になっているきりに関わる情報だけではないんです。私が考えているのはバックアップ回線です。・・・つまり命綱]
[...命綱?]
[...えぇ、そうです。恐らくいかに煌さんでも無数に散らばるナノマシンからの干渉を受け止めることは出来ないでしょう。いつかはどこかで精神が崩壊するかもしれない。私はその時に彼女のゴーストを・・・構成情報を可能な限り回線を通して、強制的に“転移-シフト-”させようと考えています]
 趙の左手で握る力が強くなる。
 今度はWaWのシグナルではなく、声で趙は呟いた。
「出来る出来ないじゃない。やってみなければわからない。でも、私が考えられる限りの手段で彼女を吸い上げてでも、彼女の精神を残す為の手段を講じたいんです。_____________皇さん」
「強制的に吸い上げる? どうやって? クローン絡みで理論上聞く話では在るけれど、そんな事が可能なの?」
 趙が目を僅かに細めて、だが確信を持って口を開いた。
「__________忘れましたか、皇さん。
 王美玲と私は軌道生まれです。それに先ほど申し上げたMMHは軌道での話です。手段がないわけではないんです・・・王美玲の血縁が軌道社会に展開してる事業の糸は、まさにそれに絡んでいるのです」
 最後に趙は、WaWを通して皇に続けた。
[...同じ手段で“転移-シフト-”させられて生き延びた前例を、私は知っています]
[..._________誰?]
 皇は首筋に手をあてながら、必死に自分がこれまで過ごしてきた時間の記憶を遡って追憶の海を泳ぎ、静かに問いただす。
[...______________メレディー・ネスティス。 煌さんが以前からその行方を追っている女性です。
 今はもう既に人ではなくなり、想像だにしない存在へと変容しつつあるようですが前例としてあるのは確かです]

「戻ってくるぞ」
 那辺が二人の肩を叩いて路地に向かって顎をしゃくる。
 皇は掴んでいた趙の方から手を離し、思わず手を振って煌へと声をかけながら走り寄る。
 
 そうしなければ、情の変動に叫びだしそうになっていた。


http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.561 ]


選ばれしモノ

Handle : “女三田茂”皇 樹   Date : 2001/03/12(Mon) 00:45
Style : タタラ● ミストレス トーキー◎   Aj/Jender : 27歳/♀/真紅のオペラクローク&弥勒
Post : ダイバ・インフォメーション新聞班長


皇は考えていた。最悪「ベター」が選べるように。
「ベストは選べないときは、ベターを選びつづけること」師匠でもある彼女のHEAVEN局時代の上司の言葉だ。
「煌さん、調子はもういいの?」
「ええ、ごめんなさい、心配をかけて…」
その時、僅かであるが視界が歪んだ。
(…あれ……?)
見えたのは歪んだ景色だけではなかった、無数に走る光の球、デジタル化された景色…それが何を意味するのか、始めは皇自身にもわからなかった。
だが、それが何であるか、瞬間的に理解することも出来た。
(…機械語…?なんでわかるの?私勉強したこともないのに…)
彼女は電脳のルールを知らない。確かに多少コンピュータという物に対する知識を持ちあわせてはいるが、それが利用できる理屈を理解しているわけではない。
だがあの瞬間、確かに「見えたもの」が「機械語」だとわかった。
「皇さん?」
「え?」
煌がきょとんと、こちらを見ている。
「どうしたんですか?」
「…話があるの」

皇は、さっきの趙の話を話すことにした。自分の命を危険に晒す以上、少なくとも、彼女には知る権利がある。その上で彼女が拒否をするのであれば、別の方法を考えなければならない。話をすることは「ベスト」であり、別の方法を模索することが「ベター」である、と彼女は考えたのである。
[どうしたんですか?わざわざWaWを持ち出して…]
[いい?よく聞いて。これはあなたの命に関わる問題だから]
[…うん、わかった]
煌も事情を飲み込んだのだろう。真剣な目で返事をした。
[さっき、趙さんからレポートの内容の大まかな所を聞いたわ。このレポートには、霧に関する情報だけではなく、その中に含まれているナノマシンを制御する方法も含まれている…いや、むしろこれを託した王小姐は、それを私達に伝える為に趙さんにレポートを託したと言えるわ]
[じゃあ、それを使えれば、逆に霧を制御することも出来るの?]
[理論上は、ね]
「理論上」の部分を強調して伝える皇。
[だけど、ナノマシンの散布度合いを考えても、そこにある情報は並みの人間では制御しきれないほどの物だわ…知識のない人間が制御すれば、キャパシティが不足してしまう…ここから先は、私の口からは言えない…]
うっすらと涙が浮かぶ。「仲間をキケンに晒す」という行為が、どれだけ彼女の心にのしかかっているのか、本人以外に理解できないだろう。
[…言って]
[………]
[お願い言って!あなたの…皇さんの口からいってくれないと…信じる事が出来ないよ…]

皇のデータが、煌の体を流れた。

[そんな…私が…?]
[あなたが、私達の中で最も電脳に対する能力が高いわ。私がやるよりもずっと…成功できる可能性が高いわ]
[………]
無言になった。無理もない、自分の命を敵前に晒すような物なのだから。
[理論の説明は省くけど、私は全世界にデータを流せるだけの設備を持ってるわ。それを使って今からレポートの内容と、さっきのデータを流すわ。それで私達は――より正確にはあなただけど、霧を制御しているゲルニカと同じフィールドで勝負することが出来る。もちろんできる限りのバックアップはするつもりよ]
そこまでいって、皇は一つ間を置いた。
[それでも、あなたが危険な事に違いはないわ。そこで趙さんはこうも付け加えたわ…『同時にあなたのゴーストを、王美玲の息のかかった軌道にシフトする』]
[!!]
[趙さんの話だと、この方法で生き残った人がいるわ。メレディー・ネスティス…知ってるわよね?]
何も答えず、煌はこくり、とうなずいた。
[…あなたと無事な姿であえるとは限らない。でも、私はあなたと死に別れるほうが…もっといや…]
大粒の涙が、皇の目から零れた。短いあいだだったが、もはや煌は、皇にとってかけがえのない存在になっていた。
[…あなたの命に関わる事だから、よく考えて。焦る必要はないわ]
そこまで言うと、皇はWaWを外した。

「彼女に事情を話したの?」
煌きを一人にする為に離れた皇に、趙が近づいた。
「彼女には知る権利があるわ。みずからの命を懸けてもらうんだから」
「確かにそうだけど…それでもし彼女が嫌がったらどうするつもり?」
「…どうしようかしら?」
「どうしようかしら?って…あなた、事情が分かってるの!?」
思わず語気を荒げる趙。しかし、その様子に皇は真剣な眼差しで答えた。
「いったはずよ。どんな事が有っても真実を伝えるって。騙すような真似は絶対にしたくない…」
視線を外さずに、皇は続けた。
「もし、彼女が断ったら…その時は多分、私がやるわ」
「…多分無理よ」
「無理でも…やらなきゃ…」
「随分と真剣な話だね」
那辺がこっちにやってきた。
「何を話してたんだい?WaWまで使ってしなきゃいけない話みたいだったけど」
「この状況を何とか出来そうになってきたわ。あの霧、いやナノマシンが、今度は私達の牙になるかもしれない…そういう事よ」
「…へぇ、ずいぶんと遠回しな発言だねぇ」
分かってるような顔でにやりと笑う那辺。
「那辺さんは、わかってるんじゃないの?」
「どうだか…」
肩を竦める。
「いずれにしても…」
視線を煌のほうに向ける。
「彼女の決断次第よ。ここから先の勝負は…」



 [ No.562 ]


小鳥達が歌う籠の中の小鳥のための歌

Handle : ”デッドコピー”黒人   Date : 2001/03/12(Mon) 23:34
Style : ニューロ=ニューロ◎、ハイランダー●   Aj/Jender : 20代前半/♂
Post : リムネット・ヨコハマ所属電脳情報技師査察官


「あげる。私がスペシャルな歌を歌ってあげる」
                                 bonnie pink【Heaven's Kitchen】 
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少し前からプロップしている曖昧な感覚の身体を澄んだ声が包んでいた。だが、それが2つの声だと気
が付くには、しばらく時間がかかった。聞き覚えのある声を誰かの声が強く支えている。
「Aaaaaaaa・・・・・・」
正確なAの音階を刻む“金字塔”YUKIの声。声量、音質共に強く響き渡る声だが、全身を振るわせながら
歌う彼女の声は、ひどく繊細な印象を受ける。ひとたび傷を受けるとそのまま砕け散るような薄いガラス
のようなイメージ。対するもうひとつの声が太く根をはるような声であることからその印象がさらに薄く
透明なものになる。でも、その分だけひどく忘れがたい印象を刻む。清く細く繊細な分、人の心の奥底に忘れが
たい印象を刻むのだろうか。
【ただ水の中に住む。ただ清き水の流れを泳ぐ魚のイメージ】……ネスティスは以前にYUKIをそう喩えていた。
その清らかな魚は今、泣いていた。鳴咽を伴わず表情を僅かにも変えず声は正確なままにただ涙を流している。
鮮烈な光景。
美しく形作られたドロイドの様に変わらない表情が、逆に彼女の深い感情をより浮き彫りにする。
それは悲しみではなく深い哀れみ。だが、その瞳に迷いはない。
以前少女だった清らかな魚は、大人の女性へと成長していた。
ただ、やさしいだけの少女は、もういない。
(彼女、分かっているわ)
経験か天性かは知らないが、大事な事を彼女は理解している。知識とかではないが、人として持つべきところを
感じ取っている。明確に。
「入れ込みすぎよ、黒人。一度出たほうが良いのではなくて?」
突然、歌うのを止めてYUKIが言う。
そして、静かに紅茶に口をつけてからこちらを見る。YUKIはライブなどの時には決まって喉飴を溶かしてある
紅茶を飲んでいる。喉をいたわる作用があるそうだが、俺には分からない。だが、味は悪くなかった。
「……」
曖昧な笑みを浮かべながら、ノイズがひどくなっているに気が付く。それは集中力が切れる前兆。
ホワイトリンクスのエミュレーションをしながら、義体を操り、会話などしていたのだから疲れてもおかしくは
ない。だが、それ以上にホワイトリンクスの発するノイズが俺を疲弊させた。
この部屋への新たな訪問者も気が付かないほどに。
「ようこそ《墓場》へ。"常緑樹"YAYOI……これで手駒は全てですよね?」
二人の声のハーモニーに拍手を送りながら、ノートリアスがあえて丁寧すぎる口調で御厨に語り掛ける。
からかい半分で御厨の神経を逆なでするような態度。彼女の器を確かめているのかもしれないのが相手
が無視をしているのでは確かめようもない。
「ニケ副指令からの定期連絡は……」
「ない。大体連絡自体が無理だろ。議会への召集を受けたからには」
御厨の言葉をさえぎりながら、阿部は俺に右の手のひらを水平に振って見せる。それは、一度断線しろと
いうサイン。
おざなりにジャックを引き抜き、人の輪へと加わる。無論、そのような荒々しい抜き方には痛みは伴うの
だが、俺にはそれが自分の痛みだとはどうも認識できない。皆が俺のことを「狂っている」という理由の
一つだ。
「今更もう一度、会議か?」
うんざりしたように言うが一度アウトロンする必要もあった。ソラに上がる前に少し休息が必要だ。ノイ
ズがひどくなりすぎている。阿部がつま先でタバコを消しながら口を開く。
「状況が進展した。だが、その前に質問だ。どうして重要なことを奴らに伝えなかったんだ?」
責めるというよりは確認するような目で阿部が俺を見返す。軍役上がりは何事も確認せずにはいられぬらしい。
「必要がなかったからだ」
簡潔に答える。阿部が新たなタバコに火をつける横でYUKIが目だけで続きを促す。
「適応者でのビルドは、すでにその形成が始まっている者が居る。――“小さな電脳の姫君”がそうだ。
奴はもう十分に自分の身体で何が起きているのかを理解している。だから、説明の必要はない。そして……
そうでない者に付いては、起きてみなければ分からない」
「らしくない表現をするわね?」
御厨が睨みを聞かせながらこちらを見るが、俺は少し肩をすくめただけで言葉を続ける。
「仮に起こり得たとして今説明したところで意味はない。奴らはプロだぞ? 「障害物が増えるかもしれません」。
この言葉に何の意味がある? そんなこと奴らは百も承知だ」
小声で笑っているノートリアスの声があえて聞こえるように言葉を区切って、御厨を見返す。
「以上が理由だが……俺はなにか間違ったことを言っているか?」
ノイズがいつもの感じに戻るのを感じながら辺りを見まわす。御厨が訝しげな様子で俺を見る。
「適応外のものでもビルドが起こる? そんな仕様で……」
実に技術者らしい質問を口にしてから御厨は周りの空気の変化に気が付く。阿部とダレカンは目を伏せ、
YUKIはしっかりとYAYOIの手を握っている。そして、うっすらと笑みを浮かべたノートリアスが口を開く。
「……ゾンビーユニット」
その台詞に御厨の顔が青ざめる。
「そんなことを……」
「兵器としては実に効果的ですよ、“ホワイトラヴァー”」
ノートリアスは冷めた目をしながらも口元には笑みを絶やさず御厨に言葉を投げた。
誰からともなく意見を求めるような目が俺に降り注ぐ。いや、計器の測定を見るような目が。
「そう、仕様の違いだ。デヴィアは適応者のみに通信を行わせるような規格だが、ホワイトリンクスは
そうではない。デヴィアの場合、適応できなかった者は「フラットライン」。では、ホワイトリンクは?
……同じ仕様の訳はない」
「むしろつながったほうが都合が良いのよね」
その、御厨のかすれたような声が皆の理解の合図。
強制的にビルドしたほうがいいのだ。そのほうがより多くの魂を共有できるのだから。
多分適応者でなければ廃人になるだろうが、神経さえ生きていれば、そういう使い方も可能だ。いや、逆に
廃人になり下手な自我がないほうが操りやすいのかもしれない。人の狂気の暗き洞に耐えれるだけの魂が存在
するのであれば、だが。
実際に被害者を調べたわけではないのだから机上の話。あくまで可能性としてあるだけだ。
「だが、その可能性は低そうだ。違うか、黒人?」
煙を漂わせながら、阿部がうつむいたままで問い掛ける。
「どうもこの霧を作り出した奴らは「ホワイトリンクス」をコントロールする気はない。現に今までその
手綱を引いてはいない。このままでいけばナノマシンが意識飽和を起こし“ダイレクトボイス”を起こすと
共に形成された「場」が瓦解する。当然そうなれば「ホワイトリンクス」に飲みこまれたものは「フラット
ライン」……むしろ、こちらのほうが可能性が高いな」
無論、その先に何があるのかは分からない。だが、その過程を通過することが重要なのだろう。あいにく俺は
呪術に関する知識のアーカイブに乏しい。
阿部がはっきりと聞こえるようにため息を漏らす。
「なるほど、実に良く出来た兵器だ。軍が何も動かないわけだ。奴ら、見とれていやがる」
彼はタバコを深く吸い込み、長々と吐き出す。
「“特機”に出動要請がなされそうだ、という情報が入ったので待ちも考えたが、どうも間に合いそうに
ないな」
(遅すぎよね)
クローソーが冷酷に笑いながら語り掛ける。ノイズがいつもの感じに戻っている。
「無理だ。奴らが2秒で来れば話は別だが」
言いながら俺は阿部が本来の姿を取り戻していく様を見つめていた。首筋の辺りがちりちりするのはノイズの
せいばかりではない。
(これが”香車”阿部英明か……)
いったい、どのようにして今までこの圧倒的な空気を己が内に封じ込んでいたのか。
(さすがにcelebrity-12ともなるとモノが違うわね)
かつて、ネットコンサートで偉大な業績を残すのに貢献した12名の俗称を称えつつクローソーが高揚している
のを感じる。
「ようやく、ニケが何故御厨を自分の代行に指名していったのかが分かったよ。俺では駄目だったわけが。
……3人。この人数が必要だったわけだ」
その眼の先の蒼白の表情をした御厨は、意外にも動揺はしていなかった。
「先輩から、あの台詞を言われてから、ずっと覚悟だけは決めていました」
自然と敬語が出ているあたり、本当に覚悟を決めていたんだろう。
「そのときがらどうせ汚れる手ならば、最初は先輩のために汚そうと決めていたんです」
「気にしすぎなんじゃないのか?」
今まで黙々とパーティの準備をしていたダレカンが呟く。
「人それぞれ思うところは違う。線引きは自分でするものだ」
言いながら俺は「ホワイトリンクス」のサンプリング・データを奴に渡す。どうせ俺にはもう必要はない。
今このデータが最も必要なのは歌い手達のはすだ。
「ありがとう黒人」
「行ってらっしゃい。お礼にスペシャルな歌、歌ってあげるわ。私達の知っている彼女の宴がまだ続いている
ことを祈りながら」
いつのまにかCz'のタイブスーツに着替えた歌姫達が戻ってきている。最新式のそれはどうも宇宙服を連想させる。
ボディラインをはっきりと表すぴったりとした生地。それが大きなヘッドフードと一体化して全身を包んでいる。
そろそろ開演の時間だ。
「じゃ、奴らのことは頼んだぜ、歌姫達。制御を奪う必要はない。この意味、分かるか?」
「あれよね? クッションにそれと同じだけのクッションをあてがうような感じでしょ? その互いの境界面で
均衡が取れていればいいのよね?」
なるほど。本当に良く理解している。上出来だ。
「出来ればその場所を”小さな姫君”達に合わせてやってくれ」
その言葉に艶やかな笑みで答えてYUKI達が所定に位置につく。
(ただのシンガーがcelebrity-12に選ばれるはずはないわよね)
クローソーのその感想に、俺は苦笑いをしつつ口を開く。
「略称発令を使うのだろう? なら俺は、ユグドラシルの回線から上がらせてもらう」
それだけを言って俺もバスタブに潜りこむ。
celebrity-12に名を連ねる3名の同意による略式強権発令。正確には御厨は代行だが、発令所にその権利の当
事者が居らず、定期の連絡等が出来ず権利の空白状態が出来た場合、その権利は自動的に代行に移行する。
それが決まりだ。書類上、これで問題はない。
阿部が辺りを見まわす。簡潔に「616番回線は空けておいた」と告げるダレカン。それはFCM直通守秘回線。
反対する理由はないわ、とYUKI。そして壁際の守秘インターホンで発令所に火が入っているのを確認して、
その受話器を御厨に投げる。
「お前が直接手を汚す必要はないさ。ただ、開始を知らせる合図だけ出せばいい」
それが気休めにもならないと知りつつ、阿部が御厨に僅かに微笑んで見せる。
御厨はそれには答えない。
「スピーカーにつなげて」
それだけを受話器に話し、一息入れる。全館にソプラノの声が響き渡る。
「E pluribus unum。-多数から1つへ-。」
今も昔も1ドル紙幣に印刷されている言葉。権限を持ったものがこの言葉を唱えるとき、それが意味するとこ
ろは一つしかない。少なくともFCMでは。
「FCM各部署に伝達。celebrity-12の名の元に【A-101】を発令します」
一瞬の静寂が訪れる。御厨が緊張しているのが分かる。FCM全体を縛るこの権限が発動されるのは始めてのはずだ。
歴史にも名が残るだろう。その善悪を決めるのは後の人々だが。
「もちろん、これは訓練ではないわ……総員、第1種戦闘配置。対電子線迎撃用意」
静かに、だが冷厳と取り返しのつかないカードを切る。
そして、静かにAの歌声が流れ始めた。ネット・コンサートの幕が今、開く。

【ねえ、黒人? なんでラの音をAと書くか知ってる? 
 赤子が一番初めにあげる声に最も近い音だからだそうよ。
 初めに齎される天使の歌声。それがAなのよ。
 だから、この音で必ず音合わせをするの。
 この音から始めるのよ……】 

ふと、YUKIのそんな台詞が頭を過る。なるほど、とてもふさわしい言葉じゃないか。

「……さぁ、ショータイムだ」

夜のとばりの降り始めたこの町で、今、俺達の宴が始まる。

 [ No.563 ]


暴獣と悪魔

Handle : シーン   Date : 2001/03/22(Thu) 03:17


こういう日は、震えながら幕をあけるものだ・・・・

「ハンニバル」 トマス・ハリス


同時刻・桃花源大飯店内

広い店内に食器のふれあう乾いた音が響いていた。
客は二人。
ボーイの姿さえ見えぬ、どこか冷たい緊張感の漂う店内にいるのは、たった二人だけだった。
二人とも東洋人のようだ。共に長身で、堂々とした体躯の持ち主である。
ボディビル等によって作られた見せかけのものではない、数々の修羅場をくぐり抜け鍛え抜かれたしなやかな弾力と瞬発力をもった獣の筋肉だ。
一人は黒いスーツをラフに着こなした30代の男で、テーブル上にところ狭しと並べられた中華の贅を、旺盛な食欲を発揮し、片端から口に運んでいる。
それはまるで、どう猛な肉食獣が獲物をむさぼる様を連想させた。
一方、もう一人の客は、自分は何一つ箸をつけず、ただ、じっと時を待つように相手の様子をブラック・グラス越しに見つめていた。
「アンタは食べないのか?ここの料理はなかなかいけるんだぜ。」
食事をしていた男、青面騎手幇の狄勲(ディック・ファン)が手にしていた鳥の骨付き肉を弄びながら言った。
「いや、結構だ。それよりも話があるのではないのか?お互い、暇な身ではないはずだ。」
相手の男は灰髪の面に彫像のような無表情を張り付けたまま、答えた。
低いが、よく通る声音だ。
聞く者を威圧する、そんな凄みすらある。
「クックックッ、せっかちだな。」
ディックは喉の奥を鳴らすように笑い、相手の濃藍のスーツに刺繍された鳳の紋章に、目をやった。
「大災厄史編纂室長、壬生さん。」
「壬生で結構だ、ミスタ・ディック。」
壬生は言い、冷たい刺すような視線を相手に向けた。
「俺の事もディックでいいぜ。」
ディックは箸をとめ、あらためて相手に向き直った。
「用件は?彼女の、ゲルニカの話ではずいぶんと重要な話のようだが?」
「ああ・・・重要な話さ、あんた達にとっても、この俺にとっても、な。」
ディックは薄い酷薄そうな笑みを口元に浮かべると、まるで自分の言葉を吟味するかのようにゆっくりと答えた。
「それを決めるのは我々ではない。」
壬生が、何の感情もこもらぬ口調で、言う。
「まあ、いいさ。話は極めて簡単な事さ。」
「三合会を俺にくれ。それだけだ。」
ディックがまるで、何でもない事のようにそう言った。
しかし、瞳は嘘をつかない。仮に壬生がNOと答えたなら、ここで彼を殺しかねない、そんな殺意の炎が瞳の奥で妖しく揺らめいていた。
「我々を甘くみない方が身のためだ。ディック。」
「!」
壬生は身動き一つしていない、それなのに、目の前の男が急に大きくなったような錯覚を覚え、ディックはわずかに身をこわばらせた。
「それにどんなメリットがあるというのかね?」
淡々と壬生が言を継ぐ。
「あ・・・あんた達の仕事がより、やりやすくなる。・・・それに、俺達なら、この街を知り尽くしている俺達なら、あんた達の探し物を探し出す事が出来るはずだ。」
ディックはまるで酸素を貪るように大きく深呼吸すると、一気にそう言った。
「アンタは解っているはずだ、三合会の手強さが。」
「だが、俺に力を貸してくれるのなら、あんた達に全面的に協力すると約束する。・・・俺の誇りにかけて。」
「誇りか・・・くだらないな。」
「何?」
壬生は珍しく、視線をそらすように窓の外の夜景に目をやると、そう呟いた。
「昔、それを口にした男がもう一人いたが、その男は全てを裏切り、たった一人の友の前から姿を消した。」
「何の話だ?・・・アンタの昔話か?」
ディックは怪訝そうに眉をしかめると壬生の、その彫像のような横顔を睨み付けた。
「時間がない、そう言ったのはアンタの方だぜ。今はそんな話をしている場合じゃ・・」
壬生が、軽く手を上げ、彼を制する。
「だが・・そう言う青臭いセリフを口にするヤツは、嫌いじゃない。」
「そ・・それじゃあ、俺に力を貸してくれるのか?」
壬生が興奮した様子で声をあげた。
「それを決めるのは我々ではない、と言ったはずだぞ。だが・・・」
壬生はゆっくりとグラスを取ると、その濃黒の瞳で相手を見つめた。
まるで、彼をその暗黒の淵に引きづり込み、取り込んでしまおうとするかのように。
「だが?」
うわごとのようにディックは壬生の最後の言葉を繰り返す。
「君がそれなりの誠意をみせれば、我々もそれに報いよう。それが、ビズというものだよ、ミスタ・・・ディック・ファン。」
「誠意?」
「すべきことは解っているはずだ、ゲルニカから話は聞いているのだろう?・・・それに、我々は用心深いのだ。巨大な組織が長きにわたり、世界の暗部に存在し続けるためには用心深さが必要だからな。」
「わ・・解った。」
ディックが喉の奥から絞り出すように、ようやくそれだけ言った。
テーブルにおかれた老酒をグラスにつぎ、一気にあおる。
「結構。」
満足した様子で、壬生は立ち上がった。
「君が我々のために働いてくれるというのなら、私も君の力になろう。とりあえずは・・・そう、店の前に集まっている君の友人達を、かわりに私がもてなしておこう。」
「俺の友人?・・・・!」
気持ちが高揚し、霧によって感覚が研ぎ澄まされた彼の耳に、数台の車が停車する音と、かすかな金属のふれあう音が確かに聞こえた。
「チッ・・・ビルの野郎。」
吐き捨てるようにその名を口にし、腰を上げようとしたディックを壬生が再び制した。
「何も、問題はない。ミスタ・ディック。」
「だが、アンタに怪我をさせるわけには・・・」
「怪我?・・・笑えないジョークだな。」
壬生は軽く口元を歪めディックを見た。
「君は、ゆっくりとデザートを楽しんでから、店を出てきたまえ。」
編纂室の長は、そう言うとゆっくりと店の出口に向かって歩き出した。
ディックはもはや、何も言わなかった。
その彫像の面に残酷な悪魔の薄笑を浮かべ、確実な死を哀れな生け贄たちに与えるべく殺戮の場に向かう壬生の姿に、言いしれぬ戦慄を感じずにはいられなかったからだ。
そして、あらためて自分の判断は間違いではなかったのか、と己自信に問いかけた。
その問いに答えるものは、誰もいなかった。
そして、もはや動き出した歯車は、誰にも止められないのだ。


 [ No.564 ]


悪霊たちの舞

Handle : シーン   Date : 2001/04/02(Mon) 00:58



▽中華街 -某居住区画-

 不快な目覚めだった。窓際に寄せた黒い革張りのソファに横たわる身体に、差し込んでくる陽の光に目が眩む。
 ディックは左手を目の前に翳しながら、ゆっくりと起き上がった。一瞬にして眩しかった視界に闇が降りる。
 自分が陽の光だと思っていたのが、実は強烈な照明なのだと気づくには数秒を要した。それとわかったのも、目が眩む光源の傍らに、見慣れたユンの顔が浮かんでいたからだった。
 ディックは翳していた手をゆっくりと降ろして静かに声をあげた。
「なんだ、一体。嫌な目覚め方だ」
「何度声をかけても起きないからだ」
 ユンはスチール製のアンティークを模った古現代調の照明スタンドを脇に向け、強烈な光を落とし込んだ。
 また一度、ディックの視界が闇に包まれる。だが、次第に仄かな室内照明に目が慣れてると視界が元に戻され、、側のカウンターからスチールパイプのスツールを足元に引き寄せてそれに跨いで座るユンの姿がやがて見えるようになった。
 ユンはスチールの椅子を軋ませるように身体をゆっくりと揺らし、徐にディックの顔を覗き込むように見つめた。
「あの女との付き合いは、やめた方がいい」
 最初から切り出されたユンの言葉にディックは眉を顰めた。しかし、はっきりと事を告げる普段にないユンへの驚きはあったもののそれは表情には出さずに、僅かに首を傾げて暫くの間見つめ返した。
「どうやら今日は厄日らしい」
「まじめな話をしているんだ、ディックさん」
「俺は不真面目か。“さん”づけはやめろ、気分が悪くなる」
 ユンは不敵に笑った。
「その違いを見分けるのが、始終一緒にいる俺でも難しいというのが問題なんだ」
「・・・厄介事か」
「わかっているだろう。何で爺さん達の召還に応じないんだ」
 ディックは静かにため息をつく。彼にとって本土や中華最高陰陽議会の手合いと言葉や意見を交わすのは、今や苦痛に近い。
 議会の老人達から、幾度も青面騎手幇の行末について接触がある理由は理解している。だが、逆にそれは鬱陶しい位だった。
 ホイが肩で風を切っていた頃も確かに良かった。議会への上納は十分過ぎる位に潤っており、本土やN◎VAの老人達がLU$Tのゆく先に口を出す理由はそもそもから無かった筈だ。LU$Tと言う街を自分等と同様に土俵としている各勢力も、暗黙の了解で互いのテリトリーを侵す事も無かった。小さな諍いは無くならないにせよ、自分たちの基準からすれば、それは無視しても問題の無いような他愛無い程度だった。ホイの外面ならぬ人付き合いが天性の素質を持っていたことも幸いしていたのかもしれない。
 狭くはないが決して広すぎることのないLU$Tの街で、構成数から言えば多過ぎると言われても口元を歪めて笑い返すしかない・・・領土を得ていたのは揺らぎ様の無い事実だ。だが、ホイはそのしのぎを守り続けた。それも一つの偉業なのだろう。自分の知らない紆余曲折もあるのだろうが、実際、彼は堅牢に組織を包む城を作り上げていたのも、やはり同じように揺らぎ様の無い事実として記憶に残る過去だった。
 しかし、そのホイも今はいない。__________死んだのだ。
 これから?
 ホイが居ない今もその取引が滞っているわけではない。十分に俺達、青面騎手幇は駆けている。
 ホイが死んだあの日から、誰がNo.1だ? __________俺だ。
 ディックは刹那笑みを浮かべ、ソファに深く座ったままユンを見つめた。刹那、ディックの彫像のような表情に自然に僅かな笑みが現れる。
 見つめつづけたままの姿勢でいたユンが、ゆっくりと顔を一度左右に振った。
「決まりきった事を言われるだけだ。そんなつまらん議会になど顔を出す謂れは無い。
 __________言いたい事はそれだけか?」
「話は終わっちゃいない。ディック、あんたが良く会っているあの女、もう会わない方がいい」
「いい女だ」
 ユンが目を細める。
「女の良し悪しを話している訳じゃないだろう。あんた最近おかしいぜ。一本、箍が外れた感じだ」
「遠回りな言い方だな、ユン。物事ははっきり言えよ」
 ディックが口元を歪めて見せると、ユンはじっとその目を見詰め返したままの姿勢で口を開いた。
「鳳の冠には決して目をやるなと、これまでの思い出せないような長い時間の間に何度口にしたか覚えているか?」
「・・・」
「噂も現実になって目の前に現れると・・・悪夢だ。大叔父が言っていたろう。鳳には目を向けるなと」
「フン、時は流れた」
「ホイの死も時の流れなのか?」
「何を後悔している。時は決して遡しまには還らん」
 ディックがソファから身を起こして立ち上がろうとすると、それよりも椅子から素早くユンが離れ、ディックの身体を押し返すように圧し掛かった。
「俺にははっきり言ってくれ、ディック」
 ユンがディックの顔を覗き込む。
 ディックはまるで女のように顔の整ったユンの表情に、昼夜を忘れさせる程の妖気を放ち始めるその瞳を観る。じっと見つめ返していると次第に飲み込まれそうな、精巧でいて実に艶かしい深淵のような相貌だった。
 自然とディックの身体に心地よい鳥肌がたった。
「_________N◎VA軍は折を見て、必要があれば戒厳令をひく体制を整えようとしている。N◎VAのBH本隊の知ってる顔がLU$T支部に来ているのはそのせいだ。LU$T支部の隊員の幾ばくかは対抗しようとしているようだが、内部抗争の収集で終わるに違いない。監査部が動き始めているからな。御前、B.H.K.にも異例の圧力がかかっているのは知っていたか? あれは取引に近いと俺は思うが・・・まぁ、それはイイ。
 BHの・・・いや、N◎VA軍の目的は、近日にあたって活動が活発になりつつある反体制派諸勢力の活動を抑制するのが目的のようだが・・・まだそれ以外に目的があるようだ。だが、それだけじゃない。どうも奴等が目をつけている検案は情報を精査してみてみれば、実に興味深い地理的なポイントを、まるで予め出来上がっていたシナリオをなぞるかの様に追いつづけている」
 ディックが一度言葉を切って、にやりと笑った。
「施政官の息の掛かった登場人物が表舞台に居るのも、御前は知らないって感じだな?」
 言いながらディックは首を左右に振って鳴らし、氷のような双眸でユンを睨んだ。
「周りを良く見てみろ。議会の爺さん達が聞いたら能面のような怒りを纏って回収に掛かるような封術絡みの側面も持っているようだぞ? ・・・あまり鋭利じゃない眼という小刀を持つようなら、始めから観るな」
 気押しそうなディックの言葉と双眸を、ユンはそのままの表情で見つめ返した。
「それだけ?」
 訝しむ表情を見せたかと思えば、今度はそれだけか? ディックは心の中で悪態を呟き・・実際にはため息をついた。
「ビルが嫌な動きを見せている。あいつ、何をして収めるかってつもりのようだな」
「無い話じゃない。・・・No.2だとやる事も沢山だ」
 ディックが目を細めた。
「知ったふりだな」
「で、その先は?」
 今度は無表情な顔で頬杖を付き、ディックが見つめ返す。
「・・・俺の見立てたところ、このLU$TやN◎VAに施されている封術は幾重にも絡み合っている。噂に聞く真教の遺跡や、華僑の始祖が治めて御している龍脈、それだけじゃない。まだ俺が表現したくとも理解の及ばない幾重もの術陣が絡んでいるって感じだ。
 言い換えれば、これまで奴等がそれぞれに主張する自らの祖先が築き上げてきたという話は、実は強ち嘘じゃないって事なんだろう・・・まぁ、そんな事は俺には関係ない。
 だが、それらを纏め上げている幾つかの重要なポイントの一つがあの漢帝廟だというのは確かだ。しかし、LU$Tにおける全ての中心は・・・違うところにあるような気がする」
 初めてディックが視線を宙に漂わせるように考え込む。
 数十秒の間そのままだったディックが、やがて何かの考えに思い至ったのかその双眸を再度ユンに向けた。
「だが重要なのはそんなことじゃない。奴等にとっては大切なものなんだろうが、俺にとってはただの道具だ。
 ユン、御前に伝えておく事がある。
 ビルが動き始めている。どうやらそろそろ奴には俺も目障りなんだろう。_________俺の取引を心配する前に、御前も気をつけた方がイイ」
 刹那揺れるユンの表情を、ディックは見逃さなかったようだった。
 素早くユンを押しのけて、ディックが立ち上がる。そのまま窓際のブラインドへと手を伸ばして外を眺めた後、ゆっくりと身体を伸ばすように腕を突き上げながら身体を揺らし、煙草を手に取った。
「ユン・・・時々昔を思い出す事がある。ビルのクソ野郎も、ホイが俺達をこの街に連れてきたばかりの頃は、今程嫌味な奴じゃなかった。__________覚えているか?」
 視線は手元の煙草に据えたまま、ディックが呟く。
 その視線は、煙草の火元を見つめているのかどうかすら窺い知れない。
 窓の外から静かに響いてくる静寂が、全てを圧するような無音の圧力で鼓膜を押さえ込んできているようだった。ユンは暫く無言で彼を見つめた後、ゆっくりと答えた。
「あぁ、覚えている。まだあの頃は、4人で円卓を囲んで食事をする位だった。今では想像も覚束無いが」
「・・・ビルは奴なりに考えてのことなんだろうがな。
 __________ホイの後姿を誰よりも長く、いつでも眺めていたのは奴だ。ホイの死の後に・・・俺がホイを殺した後、奴が俺と顔を合わせなくなってから色々と噂だけが俺の耳に届く。
 だがその全てが昔から俺が知っている、奴があまり人には見せない思慮の現れだ厭と言うほどに感じるぜ」
 深く煙草の煙を吸い込みながら、ディックが視線をユンに戻す。
 その瞳の色は嫌というほど哀しげな深い色だった。
「ユン、機会があれば奴は躊躇無く、俺に向かって引き金を引くだろう。だが、それは俺にとっても同じ事だ。奴も俺も、同じようにこのLU$T三合会の看板を手に入れようと考えている」
 ユンは思わず身じろぐ。
 ディックの視線が、熱を感じる程の圧力で自分に注がれていた。
「__________この霧に潜む様々な諸国の影に業を煮やしたN◎VA軍が、虎視眈々とその機会を狙っている。
 ビルも俺も全く違った形だが、このLU$Tにおける三合会を一枚岩にしようと考えている。そうでなければ、戒厳令の発令とともに軍の制圧を受けて燦々たる状況に陥るだけだ」
 煙草を床に投げ捨てて靴の底で踏み潰し、ディックが視線だけで射付けるようにユンを見据える。
 ユンは思わず喘いだ。全てを圧する眼光としか言葉すら思い浮かばなかった。自分がいつまでたっても超えることが出来ず、いつの日からかその背中を見つめつづける事になった理由を、今また、はっきりと思い出させられたように感じる。_________何ゆえ、ホイがディックをNo.3に据え置いたままにしていたのかを。

「八神というハウンドの狗に言われたよ・・・ボスになりたいのならと」
 ディックの表情に狂喜の笑みが刹那浮かび上がる。
「___________ユン、御前は一体どちらにつくんだ?
 正直に答えろ。答えによっては、陽の光と風を大地の上に横たわって味わう事になる。
 だが、そうでないのなら御前にも囁きを聞かせてやる。・・・霧の囁きを。
 鳳と霧の向こうに住まう住人達の囁きを」

 ディックがユンを見つめ、ユンもディックを見つめ返す。
 だがその彼等のやりとりを、もう一対の双眸が眺めている。しかし誰も・・・彼等ですらもそれに気づく事は無かった。
 彼等の住まう建物を、まるで慈しむかのように包み込む銀色の霧を通し_________彼女は観ていた。
 その視線は、荒れ狂う二つの嵐のようなスサオウと阿修羅丸の想像を絶する格闘を見越している。
 通常ならば聴覚を聾する衝撃に耳を塞ぎ、目にも止まらぬ瞬劇に目を塞ぐ筈の混乱の中、姿勢すら崩さず姿の見えぬはずの自分の姿を見据えるように宙空を静かに見つめようとする一人の男と、その身を守るべく戦巫女のように戦いに踊る女の姿を見据え、霧という無数の“光る眼”を通して全てを見つめていた。

 スサオウと阿修羅丸が巻き起こす、嵐に靡く紅い髪をかきあげ___________ゲルニカ・蘭堂は双眸を細め、声も立てずに静かに微笑み、姿を消した。

http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.565 ]


地球の蒼の丘

Handle : シーン   Date : 2001/04/10(Tue) 05:04



▽オーストラリア -同国 制宙域・軌道圏付近-

「惚れた?」
『Q-Peaks.Q-Peaks. 現座標:ニュージーランド上空...同国高層圏・制宙域通過...高度228km 速度8.76km/s』
 けたたましく警告音を鳴らしながらメッセージを瞬かせるバイザーの光と音に目を覚まし、耳にした最初の声はそれだった。
 血が偏って痛みを訴える。グレンは頭をゆっくりと回らせ、キャノピーに視線を向けた。
 コ・パイの視線の動きに合わせて闇を落とすキャノピーの一部が透過し、軌道圏からしか観る事の出来ない・・・それまで映像ソースでしか観たことの無かった風景が視界いっぱいに広がる。
 抜ける様な蒼い球体に白く大気が被さり、更にその球体を包み込む闇がただ只管に目の前に広がっている。
 あぁ、これが軌道圏なのかと朦朧とする意識にはたったそれだけの言葉しか思い浮かばなかった。
「グレン、答えろよ」
 只管に耳を圧する音量で、再度、声が響いた。
 今度はグレンは方向としては全く逆の・・・自分が座る場所の前方を見るようにした。
「教えろよ、グレン。彼女に惚れたか?」
「________何だよ、目覚ましにしちゃ訳がわからん」
 言い終わるか終わらないうちに、今度はバイザーの視界の一部に質問を投げかける声の主が姿を現した。
 クリス・ハーデル。LIMNET-Pの攻勢広報処理官だった・・・はずだ。
 何故、今こんな所に?
 酷い頭痛と揉み合いながら、必死に記憶を弄る。__________そうか、彼女を迎えに行くんだった。
 深く溜息をついて投げやりに呟いて答える。
「知らんよ、そんな事は。惚れられる事はあっても、惚れるというのはどうかな」
 一頻りハーデルの呆れたような笑い声にじっと耐えていると、やがて別の質問がかえってきた。
「グレン、たった今俺達が迎えに行こうとしている彼女は、本国の永久指名手配を受ける事になったようだ。
 なぁ、どう思う?」
「_________なんだ、それ。何かの悪い冗談か? 俺は、北米流のジョークは苦手なんだ」
 視界の片隅でハーデルが無表情に続けた。
「・・・そのままの意味さ、グレン。 本国-ステイツ-は、たった今、彼女を・・・メレディー・ネスティスを永久指名手配と決めたそうだ」
 無表情に告げるハーデルの顔は能面のようだった。だが、何よりも声が冷たい氷のように尖っていた。
「俺達が突き進んでいる目的地は、何処だ? ・・・彼女が居る“らしい”ところだ。
 俺達は何をする為にここに居る? ・・・彼女を迎えに行くためだ」
 グレンはあまり自由にならないコ・パイの席で身動きしながら、必死にハーデルの方を向こうとする。だが、シートへときつく固定するハーネスがそれを許さなかった。
「冗談ならキツイぜ、兄さん。彼女は北米人だろ? 戦場で弾が飛び交う嵐でも、遺体を回収するのがアンタ等のプライドだろう。そんな風に躍起になるのが俺が知るアンタ等北米人の手合いだ。だが、アンタが言っている事は悪い冗談だ。まるで・・・全てが嘘だとしか聴きたくもない言葉だ」
 だが、その問いかけに、バイザーの片隅のハーデルは今度は押し黙ったままだった。
 グレンが機密性の高いコックピット内に低く響く、機体が奏でる作動音の無音の振動に耐え切れなくなって声を荒げる。
「__________おい、何とか言えよ!」
「・・・本国の委員会は、LU$Tを包む霧の発生に繋がる凶事の中核を担っていると判断に及ぶにあたった過去の事件からの該当者、メレディー・ネスティスを重犯罪として扱うそうだ。
 北米CDCのゴルゴダに彼女の全ての電子情報が凍結され、ゴーストを包む肉体の殻はファームで極刑の精神凍結と投薬が行われる」
 グレンは、思いつく限りの悪態をついた後、コンソールを右手で一撃した。
「本国のお偉いさん方は、霧のカーテンの向こうと取引をしようとしていると言う事さ」
「取引!?」
「そうだ、取引だ。LU$Tを取巻く霧には、自らの国益にも影響すると賢く判断したのだろう。
 N◎VA軍の戒厳令と向き合う前に、スタンスを決め打ちするつもりなんだろうさ」
「戒厳令?」
「マーシャル・ローだよ」
「・・・誰が」
「N◎VA軍」
「・・・何処で」
「LU$T」
「馬鹿な! また繰り返すのか、あの日を!!」
 グレンが喚き立て、コンソールを左手で掴みながら必死に自分の座席の前方のシートに納まるハーデルを視界に収めようと、身動きする。
「時間が無いんだ、兄さん! アンタ等は一体何をしでかすつもりだ? 見たところ、免罪符があるって訳でもねぇ。下手すりゃ、今こうして俺を載せてRay何とやらでAXYZに、やっこさんを_________メレディーに会いに行こうとしているとわかっただけで重犯罪者の汚名を着る事になる。
 だが最初からたった今まで、アンタが後悔している表情を見せたり、後ろを振り返ろうとしている表情なんて皆無だ!
 なぁ、乗りかかった船なんだ。せめて俺くらいには正直にいえよ!
 アンタ等は、一体何をするつもりなんだ!!」

 クリス・ハーデルが初めて後ろのコ・パイに収まるグレンを振り返った。
 彼が後ろに向かって身動きする動きに合せ、グレンの視界を占めるバイザーのディスプレイに機械的な文字が重なってゆく。読めば、それはこの機体が大気圏に突入するというアラートだった。同時に高出力のECMが機体の周りに展開され、あらゆるCD/DAリンクが途切れるとグレンは視界が暗くなったような錯覚を受けた。
 その彼の挙動に構うことなく、軌道圏で接続したバウンドキャッチャー“イマジノスEXE-2020”の巨体が静かにその仰角を下げ始めた。更に、イマジノスに鋭角に収まるレイストームが別個に仰角を振り下げ、軌道上から遥か下・・・キャンベラAXYZの位置を捉えようと控えた。
「この機体に乗る前に、今回の事件が広がる盤に乗る登場人物達をデータで照会したのは覚えているな? 説明は省くぞ。
 俺達・・・いや、正確には御厨が抱え込んでいるチームの全員でやろうとしている事は、彼女メレディー・ネスティスを連れ戻す事だ。俺達の元に」ハーデルが語尾を強調するように区切った。「だがな、今のメレディーは混ざりもんだ。訳がわからない何かが混ざっていやがる。それを除外して、然るべき俺達の知る彼女を取り戻し、還るべきところに送り届けることが俺達の最大の任務だ」
「混ざりもの!? 選り分けて回収!?」
「そうだ。グレン、御前が桃花源で彼女と逢った頃には既にその人格が複数に分割されながらも何者かに統合されようとしている異常な事態を、LIMNET-Pは掴んでいたんだ。だが、何もしなかった。いや、出来なかったんだ。LIMNET-Pの特性の義体に収まっているメレディーは、言い換えればLIMNET-P製のアクセス・キーを持つ義体に収まっている事にもなる筈だった。だが、その制御の一切が無効だった」
「・・・霧か」
「そうだ、例の霧だ。あの霧が何の作用を及ぼしたのか分からんが、ともかく俺達の知らないメレディーが生まれ、LIMNET-Pの最高傑作ともいえる義体に収まってこの凶事に荷担している。
 LU$TやN◎VAにまで広がり始めているこの忌まわしい霧の力場に干渉する為に、俺達だけじゃない・・・皇に煌に黒人、それに王美玲に趙瑞葉。話を広げりゃ千早のゴードンまでもがプレイヤーとして盤上に立っている」
 グレンはハーデルの目が見えないバイザーのグラスを睨みながら唸った。
「だが・・・まだあるんだ、グレン。LIMNET-Pが彼女を執拗に追い、生死を厭わぬ程に回収に躍起になる理由が」
「・・・」
「まだ災厄が起きる前の時代だ。その頃、旧日本海深海に潜行していた対電子戦略艦DXF102に搭載された電装“イージスの盾”と呼ばれる人工知性体を回収したチームに彼女が居たからなんだ」
「_________何だって? おい、メレディーは見たところ23・4って感じだ。災厄前? ・・・冗談キツイぜ、一体彼女は何歳なんだ?!!」
 ディスプレイを通さずとも、見えぬバイザーの奥でハーデルが口元を歪めているのが手に取るように伝わる。
「________俺も知らん」
 グレンは呆れるというよりも、単にハーデルの言葉が信じられない思いにとらわれていた。
「メレディーは一度クローン再生を受けているんだよ、グレン。それだけは俺も知っている。北米に限って言えば、今は倫理的に禁止されているクローン再生を受けて生まれ変わっているんだ。
 ・・・問題はそれだ。
 本当は彼女はそこで死ぬはずだったんだ。だが、彼女は社の意に反して蘇生させられた。いや、蘇生というよりもリビルドされたってやつだな。クローン再生は全てを再生するわけじゃない」
「つまり・・・」
「つまり、再生によって本当は消えるはずだったものが残っている可能性を棄て切れなかったんだよ、当事者達が。だから、今こうして躍起になってその可能性を消し去ろうとしている。・・・合法的に」
 終わりは歪んだ声に聞こえる。
 ハーデルの表情が窺える声色にグレンは溜息をついた。
「・・・なんなんだ? そのイージスの盾って奴は」
「北米ネクサスに住まう人工知性体のオリジナルさ」
「・・・は?」
 今度ははっきりとハーデルは静かに笑い声を立てた。
「細かい事は気にするな・・・まとめるぞ。
 LIMNET-Pは今回の霧の騒動に関して北米連合の代表として・・・FCMの代表として監視を決め込む。
 北米勢力外の日系企業は、霧の解析という水糸を辿ってメレディーとN◎VA軍に必ず行き当たる。そして霧を構成するナノテクのキーテクノロジーを求めて必ず深みに踏み込む。もしかしたら武力衝突や実力行使があるかもしれない。メレディーは? ・・・無事かどうかも分からない。
 霧の効果が都市中に蔓延した時、一体どうなる?
 ・・・N◎VA軍は嫌味な程に笑顔を忍ばせて戒厳令に踏み込むだろうな・・・整理をする為に」
「戒厳令が施行されると__________」
「まず普段から衝突の多い反体制派の・・・そうだな、夏の仮面とも言える華僑・・・三合会へと矛先を向けるだろう。特にLU$Tなら、武闘派の青面騎手幇との過去の因縁は整理するに違いない」
「先代のホイが死んだって言ってたな。・・・面子と順序を重んじる本土が黙ってはいないだろうな」
「あぁ、その通りだ。実際、夏本土からその手の面子が揃って入国している。彼等もまた、整理するのさ。いや、それで治まるのかどうか。・・・距離の近い風土やスサオウというプレイヤーはそうは収まるつもりはナイだろうがな。
 さぁ、話を元に戻すぞ。
 北米は監視。日系は回収。三合会は整理。青面騎手幇はN◎VA軍は鎮圧。で、俺達も追い越し追い越せと回収。 ・・・後は?」
 グレンは暫く目を閉じて考え込んだ。
 数秒とも付かない時が流れる。軌道圏特有の無音の音圧が鼓膜を圧する。
「・・・欧州と__________」
「欧州と?」
 ハーデルが静かな声で訊ねてくる。
 欧州の影を纏うクラレンスが見つめる那辺が対だと言うなら・・・
 グレンはたっぷりと12秒考えてから、浮かんだ名前を素直に告げた。
「________日本だ。兄さん、俺はN◎VA軍が日本の代弁者だとは思えない。これは正直そう思うんだ。施政官を巡る過去の事件を知っていれば尚更、俺はそう思う。それに、榊や八神というプレイヤーの存在を聞いてから特にそう思う。 N◎VAの向こう・・・霧のカーテンの奥に居る奴等が俺には見えない」
「元外野にしちゃあ上出来だぜ」
 ハーデルがニヤリと笑う。
「だがな、ちょっとばかり注意が必要だ。今度の騒動で揺れる盤上の日本製の駒は4つなんだ」
 グレンがちょっと考えたような表情になる。
「もしかして_________」
「そうだ、それだ。前に説明した言葉に幾度か出てきた要素だ。忘れていなけりゃ、何れいつかは思いつく」
「だが、本当に・・・いや、本当にそうなのか?」
 ハーデルは肩を竦める代わりに左手を振った。
「編纂室にフェニックスプロジェクト。
 編纂室が霧のカーテンの向こうの代弁者なら、フェニックスプロジェクト・・・正体不明のその存在は、何を語る?」
 また、グレンは考え込む。
「・・・プレイヤーから言えば________キリーだ。彼と対を成しているのは_________」
「察しがいいな、グレン。本来なら対はフェニックスプロジェクトというところだが、それじゃやれてナイトを詰めるのが関の山だ。キングはともかく、クィーンがまだある」
 グレンは目を細めた。
「兄さん、アンタ等の話と、これまで聞いてきた過去の事件の話を思い出すならエヴァンジェリンなんじゃないのか?」
 ハーデルが初めて視線を宙に泳がせて、考え始めた。
「それがまだ俺にもわからないんだ、グレン。はっきり答えが出ていない。北米連合の最後の議事録の内容を信じるなら、ゲルニカ・蘭堂という存在がそれにあたる。 だが・・・」
「だが?」
 ハーデルが顔を一度脇に逸らして考え込む。
「見下ろすゲームじゃなくて、こっちが見上げているゲームだからな。・・・何か落ち着かないんだ」
 そのまま彼は静かに黙り込んだ。

 グレンはゆっくりと視線をキャノピーに戻した。
 聞くべき事はかなり聞いた。そう思った。後は・・・自分がどうするかという宿題だ。

 忠実に。コ・パイに収まるグレンの視線に合せ、忠実に漆黒のキャノピーに視界の画が移動する。
 狭いビルの小窓から覗く青空の如く、だが、グレンには目前のバイザー目一杯に広がる歴史に名を登場させるような絵画が広がる。
 それは、神の頂を想像させるぬける様な蒼い海でもあり、神すらをも溺れさせる深い深海の蒼さにも、彼には見えた。
 海に還るとは言うが_____________
 グレンは両手を祈るように合せて、呟いた。

「彼等の食卓がわなとなり、網となり、落とし穴となり、罰となるように。
 彼等の目がくらんで見えなくなるように。
 彼等の背を_______彼等の背をいつも曲がらせておいてください」


http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.566 ]


飛ぶ事を忘れた鳥達の物語

Handle : “那辺”   Date : 2001/04/14(Sat) 00:39
Style : Ayakashi,Fate◎●,Mayakashi   Aj/Jender : 25?/female
Post : B.H.K Hunter/Freelanz


▼YOKOHAMA LU$T 中華街 "裏路地"

 「ああ、アンタか。俺だ。情報が手に入ったんで送る。それを渡すときに紙に書いてあった通り、それに仕掛けた防御なんて持って30分だ。その間に全ての作業を済ませておけよ?」
 情報を受け渡す依頼人たるバウンティ・ハンターの返答を待たずに、男は、情報を送信した。
 データは同じ物を3度違う経路で。データの送信が全て終わると同時に、手にしていたポケットロンを地面に叩きつけ粉々に砕き、あげくに弾が尽きるまで弾丸を浴びせる。ニューロに読まれないための用心だ。
 彼が得た情報は多岐に渡る。
 岩崎製薬が銀星会を動かし、データの解析に当たる。
 青面騎手幇のディックとビルが、それぞれの経緯から彼らの権力基盤を抑えようと行動す。
 千早重工の統括専務がトロンの権威を天堂から招聘し、霧の解析に当たる。
 過去二度、LU$T中華街での騒動に関与した組織が、水面下での行動を開始し、同時に彼らの潜在的敵対者が、川崎タタラ街にて目撃さる。
 主にあげただけでもこれだけの情報を、一介の黒幕が抑えられるであろうか?
 弾をありったけ吐き出した鉄を懐にしまうと、無精髭がやや目立つが不潔な印象は与えない、独特のにやけ笑いを浮かべて、さらに新しくK-TAIを取り出すと、予め決められたセキュリティを高く設定された番号をコール。
「ああ、俺だよ、ハニー。さっき言ったとおりの行動は済ませた。次の行動に入るぜ?」
 岩崎製薬を背景とした華僑への交渉と保険。依頼人の元より寄せられる選別された企業情報を彼は那辺へと送ったのだ。
 依頼人、和知真弓の満足そうな声を聞きつつ、田中はK-TAIを切った。

 He won't want forgive. this is just his wont.
(彼は謝罪をしない。これがいつもの事だから)
'couze of motto,that two checks is more better than one check.
(そう、これは彼の信念-二つの小切手は一つの小切手よりもなおよい-だから)

 約15分後。
 ヨコハマLU$T中央区、バウンティハンター協会。レオナルド・平良の執務室に彼と縁のあるものしか知らぬはずのプライベート回線へと一本のメールが届いた。
 差出場所は不明。差出人は東城沙月。内容は以下の通り。
「登録NO.46074095と本部のアクセス記録及び通話に留意されたし。
 (同様に今後起こりえる事態に対してのハンターの対象殺傷許可を得られたし)
 のちのちハンター協会として、事態の収拾を見た後、No.46074095の除名を検討されたし。
 私の範たる会長へ。 登録No.46074095 東城沙月」
 決められた符牒のやりとりで、前から渡していたメッセージをクラレンスの手配にて、那辺は連絡を会長の下へと送った。
 つまりは独自の判断で動く以上、最終的な状況により最悪自分を切り捨てろというのだ、那辺は。
 同時刻、那辺はBHKへと紅い髪の女を関帝廟で捕捉したと通信し。また、那辺のアドレスを渡すとの条件で自らのアドレスを渡した、BHKに、そして那辺に赤い髪の女を捕縛せよと依頼したフィクサー(ユンの偽装だが)へと捕捉の旨を送る。
 極限られたものしか知らぬ本名を名乗り、自らののちのちの除名すら嘆願するこのメッセージを、事態の把握と状況の収拾へと向かう激務の中、平良は、見た。

▼YOKOHAMA LU$T 中華街 "NEO"関帝廟

「どんな陣容だろうと炉だろうと、どうしても維持する為には熱量がいる。つまりはそういう事だろう?」
 唐突に掛けられた馴染みある声に、キリーははっと顔を上げた。八神が油断なく視線を巡らし、草薙はやっと来たかと肩を竦める。
 視線の先には、白いコートと弥勒の女性とその背におぶさる少女、真紅のオペラクローク姿とアオザイの女性。
 刹那の沈黙を肯定と受け取ったのか、那辺は八神に向かって慣れた手つきで懐から取り出した六芒の鑑札を見せた。誇らしげに。
「バウンティ・ハンター登録NO.46074095、と……那辺です。“赤い髪の女”ゲルニカ・蘭堂の捕縛を任務としております。それと私の方から協会を通じ、BHへと協力を打診したのですが、連絡は着ておりますか?警部補。捕縛にご協力しますが」
 ああ、という八神の返事を聞いて、そのまま那辺は彼の判断に任せることにしたのか、興味自体をなくしたように八神から視線をそらした。
 戦慄き、両手を強く強く握り締め、何かに耐えるようにうつむく銀の腕の男に。
「何故、か。誰でも問う余りにも単純な問いだ。それに、悲劇に酔うかキリー?大層美味だろうな」
 嘲る如く那辺の口からキリーに向けられた言葉は、彼女に似つかわしくないほど冷たく、冷気を帯びていた。衝動的な憎悪を帯びた視線をキリーは那辺へと向ける。強く。
「愚かな事だ、人間というのは本当に変わらぬ。それで一人のオンナを愛していた、といえるのか。全てを受け入れる事すら出来ない、愛という名のオマエのエゴか?」
 引きつるように片唇だけ歪んだ笑みと科白。
 自分の頭の中を無思慮に踏み込み、無造作に探るあからさまな触手と弥勒越しの赤い視線を感じ、彼は認識してその術をはね退け、那辺の胸倉をつかんだ。
「……どういうつもりだ。俺を挑発して何をさせるつもりだ、那辺」
 憤怒を帯びたキリーの言葉に那辺ははっと我に返り、手を軽く自らに額に当てて頭を振る。
「悪ィ、無意識でね。アタシも大きな術をこっちからいくつも使ってる……疲れてるのさ。ここへ来て、色んなニンゲンの指向性やアタシ自身が恐らく混線と再構成を起してる」
 “だから、普段出来ないこんなコトも恐らく出来る……ほら出来た”
 キリーの手を襟元から外し、肩を竦める那辺の言葉とほぼ同時に、頭の中に響いた那辺の出来るという認識の元に行った伝心に、キリーは目を見張った。
「時間がない、本当に時間がないんだよキリー。説明してる時間も、術陣を止める時間も。だから、アタシらに出来るのはソレを逆に自分達の意思で使うコトなのさ」
「俺に、どうしろと……俺に何を為せと言うんだ、那辺! 愛するモノを奪われ、怒りしか──その憤怒しか持たない俺に。この街に何もかも奪われた俺にっ!!」
 軽く包むように捕まれた那辺の手を激しく振り払い、キリーは叫んだ。
「……アンタが愛したオンナは、アンタとアンタの大好きな街──LU$Tとその思い出を護りたかったのさ。アタシにも……アタシにもソレだけ愛してるオトコがいるから解る。そういうモノだと思う。受け止めてやれよ、理解してやれよ。愛したのだったら、そのオンナの……想いくらいはさ」
 弥勒を外して見据える赤みを帯びた蒼い眼と、その瞳の底に揺蕩し想い、自らに言い聞かせるように紡がれたコトバに、キリーは攻めるべきモノを無くし、そして無くしたモノの大きさに再び慄いた。
「俺は……どうすればいい。那辺、もう一度聞こう、どうすれば、いい」
「アンタが本当に撃たなきゃならないヤツを考えな。その手伝いといっちゃなんだけどさ、アンタにヒトツ、ビズを頼みたい」
「……ビズ?」
「そう、ビズさ。ここにいる“小さい電脳の姫サン”……じゃない、久遠を護って欲しい。アンタの手で彼女が望む場まで、誰の手からも。報酬は……アンタの尤も欲しい答えの欠片をやる。現在(いま)に到る現在以前の事件の欠片をやる」
 彼は慄きをとめ、ちらりと皇に支えられやっと立っていた久遠を視る那辺を見やる。
 “視たのさ、このLU$Tを覆う霧の気配から。関帝廟を包む狩り場の気配から、ハナシに聴く銀の魔女と同じ気配を感じて、彼女じゃないかとあたりをつけて術を張った──似すぎてる感触はあったが違ったけどな──ソレをアンタにやる”
 コトバに出せぬ重要な話を伝心にして、那辺はキリーへと問うた。のるか、そるか。
 2秒という刻が、これほどまでにキリーにとって永遠に思えたことはあっただろうか。
 失われたものの重さと方向性の欠落。思い出すのは──レクセルのやさしい笑みと秘めたる強い意志。
 そう、答えはヒトツだ。常にひとつだ。キリーは眼を見開く、これまでになく力強く。

「あんたとの縁も思ったより長くなってるな……乗ろう」

 言外に那辺に策があるのを気がついていると含めて、キリーはそう言った。
 深く、そして優しい笑みを浮かべると那辺は、白手袋を外してキリーの額に手を伸ばした。小刻みに震える那辺の手をいぶかしげにキリーは視る。
「過去を視たアタシが経験として記憶してる情景そのモノを、アンタにテレパスで圧縮して送りつける。受け止めな!」
 キリーの返事を待たず、那辺はキリーの額に触れた。
 那辺が垣間見た情景そのモノが一瞬にしてキリーの脳裏に乱暴にも送りつけられた。激しい衝撃にふらつき、頭を振るキリー。

 彼は盾、彼は鉄、彼は退魔のチカラを持ちえるモノ。
 あるべきモノは、あるべき姿に。望むべきモノは望むべき場に。

「……ソレに、アタシもこの街が大好きなのさ。ソイツはハンターとしてのアタシが、本当に最後に絶対に譲れない、誇りなのさ……」
 キリーの額に触れた時の暖かい感触と衝動に唾棄し。
 そんなキリーの姿を見て、懐に誇るべき鑑札をしまい、那辺はそう、呟いた。

 ほのかに光るレクセルの霊体は、そんな彼女たちの姿を見ていた。
 そんな哀しく、羽ばたくことを、飛ぶ事を忘れた鳥達の物語を。

http://page.freett.com/DeepBlueOcean/nahen_nova.htm [ No.567 ]


霧の呟きを知るもの

Handle : シーン   Date : 2001/04/15(Sun) 05:44



▽同時刻 漢帝廟


「さようなら、探偵さん」
 どこか悲しげに呟くゲルニカゲルニカの声は、次第に掻き消えゆこうとするその姿と共に、あたりの空間に染み渡るように広がって、薄く、只管に薄く広がってゆくように榊には感じた。
 傍らでは和泉が、付かず離れずの距離でそのしなやかな指先で鞘を押し下げ、油断なく構えている。
 だが榊は視線をゲルニカから一時も外さず、呼吸でその和泉の挙動を制した。
 まだその時ではないのだと、思考の一画が静かに声を張り上げていたからだった。
 側に立つ和泉が一抹の躊躇いの後、指を開き、視線を揺るぎなく辺りに巡らせる事でそれに受け答える。
 口元での僅かな笑みで和泉に頷いて応える。まだ、“彼女”の思考に降りてゆくには早いのだよ。そう声にならない言葉で呟く。
 榊は視線を上げ、ゲルニカを見つめた。
「・・・そんな悲しいことは言わないでください。私はまだ、終わりにするつもりはありませんよ。
 あなたの事をもっと深く知るためにも、ここで倒れるわけにはいきません。
 なにより、パーティーで貴方をエスコートするという約束をまだ果たしていないのですから」
 微笑みを浮かべ、自らの身体に向けらている数十の銃口と獣達の獣口に視線で狙いを定める。
 思ったよりも・・・“彼”から聞いていたよりも粒子の密度が濃いようだ。時が満ちる方が先のような気がする。以前に諜報部から聞きうけた霧の粒子の効果は思った以上に働いている_____________ゲルニカの口から言葉で聞きうけるよりも先に、身体が無意識にそう感じた。
 そんな榊の内なる思考を意に介さず、あたりからのプレッシャーが徐々に高まってくる。
 榊の背中を静かに汗が滴り落ちた。
 分かってはいても無意識に姿を現すのが人の身体だ。
 だが、そのプレッシャーも出し抜けにそのベクトルがそれ、榊と和泉への重圧が消えた。
 出し抜けに、目の前の空間に・・・空中に象が結ばれ始めた。
 同時にその空間にあった空気が押し出され、小さな竜巻が渦を巻いた。
「予測というより予言よな。あの娘ごよ・・・。中央土気。既に汚しおったか。赤の女主人。生命の見守り手よ!」
 白い装束を血の赤で染め上げた男_________スサオウが目の前に突如現れる。
「さて、いつぞやの約束を果たしに来たぞ。緋き娘よ」
 榊と和泉の周りに密集していた気配がいっせいにスサオウへと踊りかかった。
 だが榊にはその人狼の気配に、何か本能的な恐怖に突き動かされるような空気が感じられた。
 そうするうちにも、無数の爪と牙が荒王の体へと突き刺さる。
 しかし、その体からは一滴の血さえも流れなかった。
 スサオウが腕を一度振るうと目にも止まらぬ打撃が獣人を細切れへと変え、その血を大地に吸わせた。
「貴様等の爪は刃はこの程度かよ」
 そして出し抜けにスサオウが体をたわめ、両腕で自らをかき抱く。
 その姿を数秒も見ないうちに人狼の群れ群がる。しかし、スサオウは全く動じることなく出し抜けに両腕を開き、榊の目前を一瞬で絵を差し替えるように地獄絵図へと変える。
 鍛え抜かれた両腕が渦を巻き起こして空気を切り裂く。刹那、真空の刃が実を結び、竜巻と化して辺り一帯を獣も人も建物もみな一様にして舐め上げていった。
 すべて平等に関帝廟の一帯が血の絨毯となり、言葉にならない虐殺が榊と和泉の目前で展開される。
 その惨劇に和泉が僅かに怯えたような表情を見せた。
 だがその惨劇にも動じることなく、榊は僅かな恐怖に動き遅れる和泉の身体を素早く側に手繰り寄せ、辺りの石壁や天井から跳ね返る真空の刃を的確に避け、静かに宙に浮かび始めたゲルニカの姿を見つめつづけた。
「さて、雑魚は消えおった。ゆるりと・・・楽しませてくれぬのか? 緋の娘ごよ・・・」
 スサオウの背に担がれた巨大な長剣が照らし返す、禍々しい光に辺りが明るくなる。
「あなたはいつも突然現れるのね」
 榊を見つめた後、静かに余裕たっぷりとゲルニカがスサオウへと向かい、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「でも、これで助かったとは思わない事ね」
「では、次は主が相手をするというのか?」
 荒王がゲルニカに詰め寄る。だが彼女は微かに笑みを浮かべると、形の良い頤を振った。
「違うわ・・・彼よ」
 一陣の風が廟内を吹き抜けて砂塵を巻き上げると、霧を一瞬、灰色へと変えた。
 灰色の闇の中に鮮やかな緋色がまるで夜空を彩る花火のように次々と舞い、それが微かに鼻をつく異臭をもって人の血だと気が付く頃にはおびただしい数の死体を踏みつけ、肉塊の丘に男が1人立っていた。
 修行僧が着るような黒い着物の巨漢が静かに・・・夜風に揺れる。
「阿修羅丸」
 ゲルニカが艶やかに名を呼び、男はそれに答えるように手にした長い刀の切っ先をゆっくりと榊達の方に向ける。
「御前達か? 御前達が我が渇きを癒す者なのか?」
 巨大な石を擦り合せるような、低く掠れた声が響く。
 和泉が耐え切れず榊の前に踊り出ると、低い姿勢で鞘から滑らかに剣を広げた。
 だがそれを遮るようにスサオウの声が廟内に響き渡る。
「訂正しておくがよい。主の渇き癒すには我一人あれば十分よ」
 言葉が終わるや否や、筆舌に尽くしがたい嵐と嵐がぶつかり合ったような視野に収まらぬ戦いが繰り広げられ始めた。
 聞いた事も無い様な鈍い音を立てながら少しずつ廟内の壁や天井、果ては床石までもが削られてゆく。
 言葉にもならない領域の力と力のぶつかり合いが、紡ぎだされる。
 皆の目前で、いつ終わるとも知れぬ戦いが繰り広げられ始めた。
 和泉は一呼吸おくと、広げた剣を収めずにゆっくりと無意識にその戦いの場から身を逸らすようにその背で榊を押し下げていった。
 だが、榊は静かに引き下がりながらも決してその視線をゲルニカから外さなかった。
 その視線は、本人が気付かないレベルで無数の目に見えぬ“光る眼”となってゲルニカの姿を捉えつづけていたが、その事は本人だけでなく、ゲルニカ以外の他の誰も気付いてはいなかった。
 ゲルニカは僅かに舌打ちすると阿修羅丸に向かって無言で視線を送った後、唐突にその姿を廟内から消し去った。
 文字通り、ゲルニカの姿が消える。
「!!」
 和泉が驚きの声を上げ、無意識に振り返って榊の顔を覗く。
「現実とは、現実を信じるのをやめても消え去らないものです」榊がいつもの表情を崩さずに静かな笑みを乗せたまま、静かに呟いた。「霧に包まれ、あるべき眼も耳も失おうとさせらている我々には、重すぎる現実だともいえますがね__________しかし、悪ふざけも過ぎると現実を越えていってしまう」
 榊は静かに自分の前に立つ和泉を脇に寄せた。
「見えませんか・・・感じませんか」
 和泉に向かって榊が更に呟く。
 だが彼女には、スサオウと阿修羅丸が奏でる想像を絶する衝突が巻き起こす砂塵と衝撃に、耳が半ば聾され様とされつつあった。正直、榊に言われるままに耳を済ませて目を見開いても、ゲルニカの姿も本来ならその身が起こす気配の音すらも感じられなかった。
 和泉は頭を振った。
「見えないのではありません、“見えぬ”とされていると知りなさい」
 一呼吸をおき、榊は静かに眼を閉じた。

 目を閉じた榊の暗闇の視界に、一気に無数の囁き声が音から視野への映像として結ばれてゆく。しかしその映像は画ではなく、意識に直接響いてわたる“音”となってAのキーから紡がれていた。
 榊は無意識に実体ではない意識の両手をその音へと伸ばし、奏でられるAのキーをその両指で慈しんだ。
 種族も知れない無数の脈に分かれる数多の声が・・・囁きが榊には聞こえていたからだった。
 ・・あぁ、これが霧のもう一つの姿なのだろうなと気がつく頃には、朧げながらにその囁きが幾らか感じ取れるようになっていた。
 それは言葉でもなく、音でもなく、文字でもない。そもそもが何かのデータなのかということすら怪しい。幾つかの像が結ばれ、榊は自分の身に霧がどのような影響を及ぼしているのかを徐々に理解し始める頃には、側に佇む和泉の身体に触れることなく、榊は彼女の内の中に広がる静かな恐怖の声と自分に対する絶対の信頼が齎す安心感への渇望が呼ぶ焦燥感を感じ取っていた。
 正確にいうのならば我々が想像していたテレパスとも異なるのかも知れないと訝しんでいる間にも、霧が囁く幾つかの声が榊の脳裏へと像が結ばれてゆく。
『この男は危険だ』
『まだ完全体でもないわ』
『何れ像を結ぶ』
『可能性で言うならこの舞台の出演者全員がそうよ』
『無駄な時間を費やす暇は無い』
 音とも声とも付かない会話が飛び行き交い、幾つものノイズと混ざり合って流れ去る。
 瞬間、榊はゲルニカの残滓に触れ、その香りを意識で感じ取った。

「所長!」
 和泉は、目を閉じて数十秒も呼吸すらせず、突然に動かなくなってしまった榊に恐怖を感じて我を忘れて剣を鞘に収めると、彼の身体を揺さぶった。
 暫く全く反応が無かったが、唐突に和泉の叫びに近い揺さぶりに、榊が静かに目を開けた。
「和泉」最初の言葉はそれだった。自分の動揺を圧する彼の呼び声に、自分の意識だけでなく、身体までもが凍りつくのが分かった。「分かりましたよ・・・断片ですが、彼女がやろうといている事が」
 続いた言葉に和泉は両目を見開いた。
 強く和泉の肩を掴み、険しい顔で榊が辺りを見回した。
「いけない、彼女達をここに_________漢帝廟に連れて来てはいけない!
 スサオウと阿修羅丸が像を結んだこの結界に______________」
 全てを聾する阿修羅丸の雄叫びが廟内に響く。
 全ての動きが止まり、たった一つの声に全ての音が掻き消される。和泉は両耳を塞いで榊にしがみ付き、スサオウは一度阿修羅丸と切り結んだ後に自らの目前で長剣を横に薙いで、両目を顰めた。
 阿修羅丸の連撃を受けて流したスサオウの血が描いた印が自然に像を結んで結界を成す。その浮かび上がった結界と双面を成すように・・・裏に張り付くように、阿修羅丸がスサオウの打撃を受けて流した血が印を結ぶ。
 同時に阿修羅丸が片膝をつき、スサオウは顎をギチリと噛み鳴らして急速な脱力感に耐えようとする。
 そしてそれと同時に、彼は大地を揺るがす唸りをあげた。
「全てを厭わず・・・我をも、楔とするつもりか! 議会にまで影を許し____________あまつさえ、どう贖うと言うのか!!!」

 廟内にゲルニカのものともつかない囁くような笑い声が響く。
 全ては歯止めが利かないからくりのように像を結びつづけている。
 門の外で八神が顔を上げる。
 那辺は背負った煌を振り返り、皇がその背に手をかける。趙は辺りを見回して風土の姿を探し、キリーと草薙は目を細めて向き合った。
 誰も、この漢帝廟から離れよう等とは考えていなかった。いや、むしろ無意識の深さからレクセルの浮かぶ門をくぐり抜けねばならぬと一歩を踏み出そうとしていた。

「この場所は落ち着かない・・・ね」
 クラレンスが幾らも彼等から離れていない場所から漢帝廟の建物を仰ぎ見、呟いた。
「___________落ち着かないというよりも・・・確かにそうだな、【香り】を感じる。
 狩り場とはアイツも巧く言ったもんだ」
 視線を一度足元に落とし、クラレンスは静かに漢帝廟の門の方角へと静かに歩き始めた。
 
「お嬢ちゃん、ちょっと降りてくれ」
「うん、ありがとう。_________もうだいぶ楽になったから」
 那辺がふとその視線をあらぬ方向に向ける。だがそれには誰も気付かない。
 降り立った煌は静かに溜息をつき、首の辺りのWaWの端子を指でさする。
 異常な程の熱気がそこから伝わる。・・・それは煌の身体の高揚感に照らし合わせるかのように超絶の電脳への干渉力を発揮しようとしていた。

「___________私、行かなきゃ」
 那辺が聞き取れない程の呟きを漏らす。
 だがその呟きを、誰も耳にする事が出来なかった。

http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.568 ]


紅の魔女の夢

Handle : シーン   Date : 2001/04/17(Tue) 22:31


バキィィィン!
荒王と阿修羅丸、二人の闘神がその巨躯からは想像もつかない程の身のこなしで交差する度に、爆発音にも似た打撃音が、夜の静寂をやぶり関帝廟に響きわたった。
それが彼らの手にした長大な刀によるものなのか、たくましい腕から繰り出される拳によるものなのか、定かではなかった。
それというのも、彼らの技量は、達人と安易に呼べるレベルをはるかに凌駕していたからだった。
肉が爆ぜ。
血しぶきが舞う。
二人の力は拮抗しているかに見えた。しかし、そのバランスは奇妙な変化を見せ始めた。
各々の、似てはいるが自らの力と技で闘っていた二人が、徐々に、同時に同じ技を放ち始めたのだ。
それはまるで合わせ鏡のように、互いにまったく同じタイミングで同じ技を繰り出していた。
そして、変化を見せ始めたのは、阿修羅丸の方だった。
彼は、荒王の闘術、剣技、身のこなしにいたるまで、まったく同じ技をふるっていた。
「むう・・・」
さしもの荒王も表情を曇らせた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同時刻・ヨコハマLU$T 中華街

幾重にも張り巡らされたネットワークを介し、何万通りもの複雑な暗号化のパターンを経て、編纂室の長、壬生の声がある場所へと届いた。
「室長かい?」
その場所、フェニックスプロジェクト、メインフレームの主、千眼が聞き返す。
「つまらない問いはよせ。貴様の事だ、どうせどこかから“視て”いるのだろう?」
「わかりましたよ、室長殿・・・クックックッ。」
「で、用件はなんです?」
ノイズにも似た耳ざわりな含み笑いをもらし、千眼が答えた。
「“デスサイズ”と“フーディニ”を用意させておけ。」
「あの二人を、ですか?・・・ゲルニカは?・・それに阿修羅丸がついているはずでしょう?」
壬生の言葉に、千眼が聞き返した。
「ゲルニカも阿修羅丸も健在だ・・・だが、あの女はもともと編纂室のメンバーではない。あくまで、一時的に、我々に協力しているにすぎんのだ。」
壬生が淡々と言を継ぐ。
「裏切る可能性があるという事かい?」
「厳密には、違うな。もとからあの女には別の目的があったのだ。今のところ、誤差範囲内だがどうなるかは、私にもわからん。」
「やれやれ、じゃあ、あの化け物どもを俺達が止めなきゃならない可能性もあるのか・・・気が重いねぇ。」
「今、関帝廟に集まっている連中が何とかしてくれないものかね。」
千眼の言葉に壬生が、かすかに口元を歪めた。
「阿修羅丸の力は、純粋に戦闘能力だけをみれば、編纂室でもトップクラスだ。それに・・・アレが“何ものであるか”を知らなければ、勝てるものなぞいないだろう。」
壬生はそう言うと千眼の言葉を待たず、回線を閉じた。
霧に包まれたLU$T の街並みに目をやる。
「この街で、お前は何をしようとしている、夢使い?四天使を、ラドウの元を離れ、我々を敵にまわしてまで、果たしたいと願うおまえの望みは何だ?」
壬生の呟きはLU$T の闇に溶け、そして消えた。

 [ No.569 ]


EDEN -エデン- (1)

Handle : シーン   Date : 2001/04/19(Thu) 02:30



▽ ヴァラスキャルヴ


 暗い海だ。
 ディスプレイを通した視覚で見れば暗い空間に微かな緑色を伴ったグリッドが幾層も広がり、そこに星の数程の無数のアイコンが、それこそ点になる程に鏤められて見えるのだろう。だが彼女にとってはそれすらも暗い海だった。
 静かに彼女は面を上げ、自らが降り立った場所をもう一度ゆっくりと眺める。
「・・・」
 __________そこは彼女が見慣れた黒鉄の城の面影も無く、思い出に埋もれた記録の欠片すらも無かった。

 AXYZ市の北東15kmの地点にあるキャンベラ新国際空港。そこを治める“ルチアディース”から静止軌道へ向けてアップリンクが幾重にも繋がれている。オーストラリア一の発着便数を捌き、軌道圏への道標として世界に最もその名が知られた回線を経由して・・・彼女は下界を見つめた。
「もう、草薙君は降りたのね」
 柔らかなホログラムの光に照らし出された霧状スクリーンを見つめながら呟く彼女に、ラドゥは溜息をついた。
「・・・クレア、時間が無い」
「貴方の時間が無い、の間違えじゃない?」
 無邪気に応えて返す彼女に僅かな苛立ちを感じる。
 ラドゥは捉えどころのない“彼女”をあまり好ましく感じていなかった。元々からして生まれ出でた世界が違うのだ。何処までが表層で何処までが深層なのか。まるで機械仕掛けの人形を相手にしているようで、全くあるべき捉えどころがようとして知れなかったからだった。
 もう一度静かに肩を落とすとラドゥは溜息をついた。
「もういい加減に、表層意識くらい占有したらどうだ」
「あら、“彼女”はお嫌い?」
 ラドゥの溜息にその視線をスクリーンから外し、彼女は舞うように振り返る。
 彼の目の前で踊るように身動きする・・・その、ある意味ぎこちのない不慣れな動きに、肩に多少掛かる辺りで大雑把に切り揃えられた黒髪が動きに合せて揺れた。
 彼女は屈託のない笑みを浮かべ、ラドゥに向かった。
「この身体、凄いね。私のライブラリーに記録-データ-の欠片すら載ってない」
 彼女はもう一度、今度は逆向きに静かに舞い踊った。
 その姿をじっと見つめながらラドゥは目を暫く閉じた。
「既にその存在すら否定され、親とも言える国に疎まれ抹消された存在だからさ・・・文字通り影も形もなくなった」
 彼女はラドゥの言葉を意に介さず、静かに微笑み続け、踊りつづけた。
 そのしなやかな指先が、ありもしない風に靡くかのように揺れ、静かに舞う。
「そうじゃないよ、私が言っているのは。数え切れない程沢山の子供達の囁きが聞こえるのよ、この身体。
 凄いね、そんな子供達を“彼女”はずっと一人で相手していたの。寂しかったろうね・・・。
 これ_____________ソフトマシンボディよ、きっと」
「そんな事はどうでもいい」
 ラドゥが頭を振って視線をスクリーンに向けた。・・・“宴”の時は近い。
「エヴァはどうした?」
「・・・」訊ねられた彼女が眉間に指をあてて目を一瞬細める。やがて小さなその頤から呟きが洩れた。「下にいるわ________ラドゥ。・・・2人で」
「愼司か」
「えぇ」
 スクリーンが二つに分かれ、その一つにアップになったエヴァの顔が投影される。
 暫くはエヴァが誰かと会話をしている姿が映されていたが、やがて“観られている”事に気がついたのか、スクリーンを見つめるラドゥと彼女の視線に向かってエヴァが両目を向け、絡め取るように睨んだ。
「・・・怖い人」
 ラドゥが口元を僅かに歪めて笑う。
「心配するな。御前なんぞは歯牙にも掛けんよ、彼女は。クレア___________いや、メレディー・・・メレディー・ネスティス」
 名前を呼ばれた彼女が、小さく肩を竦めてしなやかな両腕で自らの身体を慈しむように抱きかかえる。その仕草はまるで子供だった。
「風のエヴァンジェリンは、光の息吹を嫌うのね」
「クレア、御前が宿るその身体はエヴァが・・・彼女が以前に引き金を引いた事件を収拾して治めた者達の一人だ」もう一度、低く、ラドゥが笑う。「人は誰でも嫌な思い出や記憶を持つものだ」
「・・・貴方も?」
「さてどうかな」
 ラドゥはスクリーンに手をかざしてエヴァの姿をかき消すと、元々から投影されていた漢帝廟の内部を映し出す。霧に投影される漢帝廟には那辺と煌、皇、趙瑞葉の姿があり、その時丁度那辺がその背から煌を降ろそうとしているところだった。
「人であるということは、もうとうの昔に辞めた。 ・・・それよりも準備は進んでいるのか?」
「八卦炉の事?」
「そうだ」
「炉のことならエヴァンジェリンに聞いた方がいいわ。彼女、ずっとゲルニカから付かず離れずじゃない。
 それに術式なら私よりも貴方のほうが詳しいでしょう」
「私が聞いているのは網路の事だ。LU$Tの術陣には中華最高陰陽議会が素早くその手を伸ばしてきている。・・・無論、取引は済んでいるが」歪んだ笑みでラドゥが顔を満たす。「千早がかなり早期から霧を解析しようと手を伸ばしている。王美玲や趙瑞葉の姿がここに映る事は如いては、我々が張り巡らせた網路に同様の干渉者が現れるという可能性の誕生にも繋がる。アラストール真の姿で“降ろす”為にはアストラル界と原形界だけの共鳴では足りない」
 クレアは静かに微笑んだ。
「大丈夫。ゲルニカを見つめていればどうやっても忘れないわ。
 彼女、ホワイトリンクスに汚染されたLU$Tに向かって、BHの傀儡からエコーを打たせたわ」
「・・・見つかったのか」
「えぇ、候補者は見つけたみたい」
「候補者が該当者にされるまでの時間は?」
「そうね・・・1時間もないんじゃないかしら、ひょっとしたら。________子供達も騒いでいるし」
 ラドゥが目を細めた。
「ゲルニカが我々と袂を分かって、編纂室に収まった事まではいい・・・代わりは幾らでもいる。
 だが彼女が彼等の元で鍵の存在を手に入れる為におとなしくしているとは、俄かには信じがたい。クレア、御前はゲルニカの行動をどう観ている」
「__________私、北米ネクサスで生まれてから日本海に沈むまで色々考えた事があるの」
 ROM人格構造の結晶体に納まるメレディーの意思を強く抑え込み、クレアは囁くように笑う。
「人の希望は欲望から生まれる子供のようなものね」
 呟きながら彼女は、ラドゥへ振り返った。
「ねぇ、ラドゥ。ゲルニカにとってのアラストールは何? 私、彼女はちょっと私達と違うところを見つめているような気がしてならないわ。確立の問題じゃなくってよ?
 むしろ、私達と編纂室は行き着く先が同じよ。立つ場所とその経緯が違うだけ、その角度が違うだけ。
 私達はアラストールを“降ろす”事で整理しようとしている。彼等も自らを律する尺度で粛清するべきだと信じているのだと思うわ・・・乱暴な言い方だけれど」
 ラドゥがその目を更に細める。だが、クレアは構わずに言葉を続けた。
「霧を通してLU$Tに住まう者達全てにホワイトリンクスの端子を構築する。結果、潜在的なユニットとして機能する前に、その存在そのものが小さいながらも互いを補間しあって術陣を補完する。幾重にも重なった結界へ干渉し、融合し、選り分けて起動する為にはそれでもまだ足りない。
 きっと、その足りない分をプレイヤー達で補おうとしているのかもしれないわ」
「その先はどうなんだ。 単にアラストールを仮初めになく降ろすのであれば、何も袂を分かつ理由もない」
「そうね」
 クレアが眉間に指をあてて、一時考え込む。
 やがて彼女は何かを思い出したのか、刹那子供のような笑みを浮かべるとラドゥに向かって微笑んだ。
「人は誰でも嫌な思い出や記憶を持つものよ、ラドゥ。
 “夢使い”なんでしょう? 彼女。
 夢の続きを見るつもりなのよ、きっと・・・・言いたい事わかるかしら」
 ラドゥが歯を噛み鳴らした。
「___________候補者を堕とせ、クレア」
 クレアの表情から徐々に人間味が失われ、言葉の抑揚もなくなり、終いにはまるで機械仕掛けの神-デウス・エクス・マキーナ-のようにカラカラと頤が笑って揺れる。
「そのつもりよ、ラドゥ。
 術者には術で。力には、力で。鋼には、鋼で」
 刹那その表情に、氷の笑みが浮かぶ。
「電脳に住まう者には_______________そうね、私が夢を見せてあげるわ」

 ソフトマシンボディに実装されたROM人格結晶体に納まるメレディーを依り代に、LU$Tに機械仕掛けの天使が降りる。
 過去にイージスの盾と呼ばれた人工知性体が、創造者の想像を遥かに越えた存在となっていた。
 その姿は、ウェブの蒼いグリッドから見つめれば、宛ら聖書に記される天使の様に見えただろう。
 だが今、その姿を見、その存在に気付くことが出来た存在は____________後に振り返れば、愕くほど少ないのだった。

http://www.dice-jp.com/plus/china03/ [ No.570 ]


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