b2d 09

 その晩、俺の足は「海」へと向かっていた。
 店はいつものように閑散としている。ひとりだけ、カウンターで葉子と親しげに話しているコートの男がいた。あいつは狼男だ。まだそれほど、深いところには行ってはいないらしい。ほんの少し毛深いだけで、一見して普通の人間と変わらない。
 俺の姿を見ると、すぐに葉子はやってきた。俺は注文をするかわりに、こう言った。いつもと変わらない口調であるように努めた。
「俺のことを知っているな」
 同時に俺は、上着の懐を開いて見せた。ベルトに吊った「俺自身」に葉子の視線が注がれる。葉子は小さくうなずいた。
「最初から見抜いてたのか?」
「ええ」
 葉子は俺の向かいのソファに腰かけた。
「椎原さん──いいえ、「ピストル楊」さん、でしょう」
 ピストル楊。それが俺の、人間だった頃の名前だ。黒社会だ流氓だ中国マフィアだとマスコミが騒ぐ以前に、歌舞伎町に登場した最初の中国流氓が、台湾から流れてきた楊某、通称ピストル楊だった。つまりは、この俺だ。
「ここのお客さんのうち、何人からか聞いたのよ。あなたのこと。……これからは楊さんって呼んだ方がいい?」
「いまは椎原だ。楊は過去だ」
「今度はこっちが聞いてもいい? あたしのこと、誰から聞いたの」

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